フィフス③

「誰だ、君は」


 額にうすらと滲み出る汗を拭ってトエルブが語りかけた。


「名はある」


 だが、と一言付け加えて、男は上着を脱いだ。


「二度会わぬものには名乗らん」

「……ほう?」


 名がある、自我がある。

そしてなにより、この男には愉悦を死に求める天性の根心が宿っている。

殺しに生きたファーストや、間接的とはいえついさっきに人を殺めたトエルブ自身にすら持ち得ない、人の死を尊ばず、慈しまず、哀れまず、憤らずの精神。

 星の数ほど死を見てきた、死など人生一片、泡沫の飛沫を皮膚に感じるほどの感嘆なり。

その大胆不敵が傍若無人を着て歩くようなふてぶてしさが、外見だけでも十二分に伝わってくる。


「牙はどうした? 丸腰で我に挑むのか?」

「あんなもの、とっくに海に捨てた。 どんな能力かも知らない」


 トエルブは牙という道具を心の底から嫌っていた。

他人が牙を振るうことに嫌悪感こそ感じなくとも、自身が自身の力の内に頼らず名を成すことに、どうしてこれほど嫌がるのか。

ただ単純に、牙を使うことが"あの男"の思い通りになっているようで気に食わないのである。


「牙に向かって吐き捨てる台詞でもあるまい」

「だな。 君も捨てるか」


 表面上では強気でも、既にトエルブの脳内から「戦闘」の文字は消え去っていた。

戦っても負ける。

自分が逃走に成功したとしても、後続のFangsがやられる。


 このまま会話を長引かせ、突破口を探る以外に道はなかった。


「宣戦布告にしては、覚悟が足りぬ。 それとも、誰かが死んでからのほうがやる気が出るか?」


 男が髪を掻き上げると、さっきより倍ほどの長さの黒髪が腰まで垂れた。


「……俺はそこまで仲間思いじゃない」

「成程」


 突如、眼前から男が消えた。

いや、正確には人間の目に捉えられないほどの速度で移動したのだが、本来この世に存在し得ない超スピードに、脳が「消えた」という突拍子のない結論を無理矢理に決めつけようとしたのだ。

故にその間違った思考を否定するまでトエルブは、音もなく背後に回った男の存在に気づくこともなかった。


「成程成程」


 振り返りざまに二の腕を掴まれ、空中で何回転かしながら窓に衝突した。

厚さ2センチの強化ガラスにひびが入る。


「む? 己の知るところでは、硝子とは女子供の非力な力でも壊れるほど脆弱な物質という認識であったが…………少々見直したぞ」


 トエルブは無責任に途絶えようとする自身の意識をなんとか繋ぎ止めながら、ファーストとの通信を切ったことを後悔する。

彼が居ればまだ、あと5分ほどは延命できただろうか。


「嗚呼否、見直したのは硝子ではない…………汝の信用に値しないという『仲間』とやらに言ったのだ」

「…………なに……?」


 空気の流れだ。

あの牙が発動するときにはいつも、発生点を中心に室内の空気が僅かに膨張する。

その微量な気流を、かつてフィフスだった男は感じ取ったのだ。

 無から現れ無に消える、シクスの牙。

トエルブと男の間に現れたのは、藤芝康平と卜部美奈だった。


「…………うーん、これはちょっと、来るタイミングが悪かったかな。 帰る?」

「相変わらず、貴方は人情に欠けてますね……」


 未だ余裕綽々の表情を崩さないまま、二人を見据えて男は言った。


「なかなかどうして、楽しめそうな相手ではないか。 己はてっきり、またそこの男のような低俗な輩が来るのかと踏んでいた」

「可哀想に。 君、低俗だってさ」

「…………言わせておけ」


 しかし、トエルブにとって藤芝と卜部の乱入は好都合だった。

全く勝ちの目の見えなかった戦いに、ほんのかすかな勝ち筋が通ったのだ。

これをモノにしなくては、二度とチャンスは回ってこない。


「それで、あの男がフィフスで間違いないかい?」

「いや……確かに元はフィフスだったが……あれはフィフスの持っていた牙そのものだ。 フィフスが死亡したことで、肉体の所有権があいつに移った……」

「へぇ、不思議なこともあるもんだ」


 卜部の縄が展延し、一部のみを硬化することでヌンチャクのような形状に変化した。

しかし左右の棍棒部分が腕と同程度かそれ以上に長く、どちらかといえば二刀流に近い構えである。


「只の荒縄ではないのか、面白い」

「興味津々って感じだけど、私はあくまでサポートに徹するだけだよ。 ジャイアントキリングなら隣の子に任せるさ」


 藤芝康平の妖刀。

あらゆる生物に死への恐怖を強制するその能力、感情があって会話の通じる牙にだって通用するはずだ。


「刀には少々なりと知見があるのだが……見慣れない鞘と柄だ、牙なのか?」

「そんなに見たいのなら、試してみればいいでしょう」

「成程、相分かった」


 先程同様、男は異次元の速度で藤芝の背後を取った。

後ろから見ていたトエルブでさえ捉えることのできなかった疾走を、藤芝が振り返るより早く、攻撃を受け止めたのは卜部だった。


 不変不朽の名の下に放たれた男の拳は右に逸れ、空を切った反動そのままに回し蹴りを繰り出す。

これは遅れて反応した藤芝が刀で防ぎ、火花を散らした。


「む……? その刀……」


 足を上げたことで無防備となった腹部へ卜部が攻撃を試みるも、その前に藤芝が押し負けてしまい、二人まとめて横へ吹っ飛ぶ。


「村正」


 トエルブは最初、男の発した言葉の意味を測りかねていたが、すぐに藤芝康平の牙をそう呼んだのだと理解した。


「紫陽花の刀身、底知れぬ威圧感……村正に違いない。 それがなぜ一介の馬骨の手に収まろうか、考えにも及ばなかった」


 追撃を放置して、男はその場に考え込んだ。

その異常な様子に困惑した三名は、ただ次の男の台詞を待つしかなかった。


「汝、何処の出生だ」

「…………藤芝」

「藤芝? ……ほう、成程…………ふ、ははは、……ははははは……!」


 今度は腹を抱えて笑いだした。

当の藤芝も何がおかしいのかわからないようで、先程のような奇襲を警戒して居合の構えに入っている。


「成程……成程成程……! 人を飼い殺す妖刀が、人間に手懐けられている! それも京都の詐欺いんちき鍛冶師の後代ときた! は、専ら豆腐もろくに切れぬようななまくら刀しか打てぬのに……否、あれは悪戯に人を殺めぬからな。 仇敵の介錯には打てつけ、が売り文句だったか? そんな碌でも無い者に力を貸すとは、村正の名も廃れて然りだ」

「…………僕に言っているのか?」


 藤芝が聞くと、男はさっきよりも大きく笑った。


「いやいや傑作傑作……! 人を嘲る趣味はないが、これには動じぬほうが難しいというもの。 ……いや、先の質問であったな…………己が藤芝の後代に申し立てることなどありはせん。 そこの無口な……妖刀を笑っているのだ」


 藤芝康平の妖刀は相変わらず薄紫の輝きを帯びている。

これが人語を理解するとは到底思えないが……。


「どうやら目覚めどきを誤ったらしい。 もう半月ほど座して待つが吉か? うむ、それがいい」


 ただ一人で話を進めて納得する男に、痺れを切らせて卜部が尋ねた。


「ちょっと、さっきから蚊帳の外って感じでいけ好かないねぇ」

「安心するがいい。 たった今、汝等の命は取らないことが決まった」


 男が再度、傷口をなぞると、今度は傷そのものが綺麗さっぱり消え去った。


鎌鼬かまいたち。 それが己の――牙の名だ。 しかと心得ておけ」

「なに……?」


 二度合わぬものには名乗らない。

その発言が正しければ、男はこの場でトエルブたちを殺す気がない、ということになる。


「少々勿体無いがこの肉体、己が対の軟弱者に返すとする。 ……嗚呼否、は必要か」


 鎌鼬。

その名の意味を理解するまで、そう長い時間はかからなかった。


 一度目、二度目の激突とは比較にならないスピードで藤芝に接近した鎌鼬は、そのまま前方に身を任せて倒れ込んだ。

鎌鼬の姿勢が崩れた瞬間に、肉体の支配権はフィフスに戻ったのだと思う。

だがそうなる前に、消えゆく鎌鼬の意識が最後の攻撃を放ったのだ。


 ――でなければありえない。


「藤芝っ!」


 最初に反応した卜部が注意を促すその後に、藤芝の左腕が

瞬きするより早く、誰も気づかないうちに。

当に鎌鼬のように、切り裂いた。


「――――化物だ」

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