下準備

 トエルブらと会合してからの進展は急だった。

加々峰は事務所に帰らず仕事に勤しんでおり、卜部はここ最近寝ている姿を見ていない。

来る潜入の決行日へ向けて、残る加茂と音無、木戸が行ったのは戦闘能力の向上を目指す特訓であった。


「そうだな……1から武術ってのを教えてちゃ間に合わないからな。 加茂、お前には簡単な護身術の知識を伝える」

「はぁ」


 赤羽駅前の喫茶店、onAirの地下室。

牙の保管庫と訓練室を兼用した広い室内は、その最低限の機能を保証して実に質素である。


「まずは打撃だが、お前は牙の性質上、下手に急所を狙うと人を殺しかねん。 だから基本、打撃技は封印だ」


 相手が同じタイプの牙なら話は別だがな、と付け足して、木戸が続ける。

「できるだけ相手を傷つけずに制圧する方法は投技組技。 今回はその中でも特に簡単な技を紹介する」


 木戸はおもむろに加茂の片腕を掴むと、背を向けて投げた。

以前も見た一本背負いだ。


「いたっ! 何すんだよ!」

「これが有名な投技の一本背負い。 一番簡単で一番強い。 やり方とかコツとか色々あるが……ま、お前の牙のパワーならそんなのは考えなくてもいい。 服か腕か脚掴んで、腰の回転利用して背後の地面に叩きつける。 それだけ意識してりゃ困ることはない」

「そんな大味でいいのか……」


 訓練室の一角から、先ほどよりも一層大きな爆音が轟く。

音無楓がまた一つ、サンドバッグを破壊した音だ。


「あいつ……道具をここまで運んでくるのは誰だと思ってんだ……」

「今日だけで3つは壊してますよ」


 加茂も何度か打ち込んだことがあるが、あれに砂の質感など微塵もない、鉄か何かの鉱物でできている塊だ。

牙を使うならともかく、素手で破壊するのは不可能に近い。


 加茂の疑問を補完するように、木戸が説明した。

「音無の牙は、……詳細は伏せるが、かなり制約のきつい能力だ。 普段の言動や態度には、そのデメリットによるストレスが大きく関わっている。 俺が見てきた牙の中でも類を見ないレベルだ」

「じゃあ、そのぶん能力は強いんですかね」

「牙に強いも弱いもねぇよ。 あるのは状況優劣と相性と使い手の度胸だけだ。 もっとも――」


 音無が訓練室内の個室からでてきた。

薄着のトレーニングウェアの全体に布の切れ端がくっついていて、頭は特に、表情が見えなくなるくらいだ。

どうやら、サンドバッグの中身を頭から被ったらしい。


「……シャワールーム、どこだっけ、久しぶりだから忘れた」

「2階に上がって右だ。 着替えがないなら、脱衣場のどっかの棚に適当な服が入ってる」

「そんな遠かった記憶ないんだけど……気のせいかしら」

「地下のシャワールームが故障してんだよ。 牙のこともあって、あまり業者を呼びたくねぇんだ」

「ふーん……」


 会話を聞き流しながら、加茂はどこか、些細な違和感を覚える。


「なんか、やけに上機嫌じゃないか」

「今日は一ヶ月に一度の休暇だから、嫌でも気分がいいのよ」


 音無はそう言って、口笛を吹きながら地下室を後にした。


「珍しいとかそういうレベルじゃねぇ……あれはなにか……別の人間だ……!」

「見慣れてるとそうでもないが、初見だとそんな反応になるのか。 ……まあ、そういう奴だと割り切ってやってくれ」


 木戸が煙草に火をつけた。


「じゃないと、この先もたないだろうからな」

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