Act25. 「もしも、消えてなくなりたいって思ったとしたら――」

 原稿を引き裂かれた、その週の日曜日。あたしは重い足をひきずって、桜峰図書館まで来ていた。

 ぶっちゃけなんだか身体が重くて、出かける意欲はゼロだったんだけど。

 家にいたら元気ないの、おかあさんたちにもばれちゃいそうで。

「……」

 机の上、頬杖をついて、セロテープで張った原稿を見つめる。

 なんとか修復を試みてみたものの、やっぱりところどころ文字がくすんでしまって読めない。

 なんて書いたか、思い出せないところも少しある。


 ……なんだか、厄介なことになっちゃったな。

 夏陽にも現場を見られてしまったし。

 あの性格だからあたし以上に憤慨して心を痛めているに違いない。



 机に接した窓から、中庭が見える。

 銀杏の木の上で、残りの一枚となった葉っぱが寂しげに揺れていた。

 ……いじめられてわかったことが一つある。

 それはあたしが案外強情だってことだ。

 不良の彼らが教室でチョークを投げて遊びだすと、みんな席をどいてよけた。でも、あたしはそれをしなかった。彼らにチョークをぶつけられても、席を動かずずっとそこに座ってた。

 みんなの教室でそんなことをする人たち相手に、なんでひかなくちゃならないのかがわからなかったから。

 二年に進級して不良グループににらまれてから、なんとなくクラスの子たちはあたしを避けているようだったけど、違うクラスには味方してくれる夏陽もいるし、つらいけど、平気だろうと思ってた。


 でも、今回は。


 急激に疲れが両肩におりてきて、がくんとほっぺたをテーブルにつっぷす。


 じわじわ心の中の血潮が奪われていくようだ。

 靴隠されたこととか、黒板にへんな似顔絵と名前を書かれたこととか、いろいろ蘇る。


 我ながら、ほんとうはけっこうつらかったんだな、なんて思ったりして。

 ま、こんな日もある。

 こんな日も……。



 ぱしっと音を立てて、腕を掴まれた。


 ゆっくり、伏せた顔を上げる。



 サングラスの奥の鋭い視線。



「なんで泣いてる」

 

 純は怒っているのか、席に座っているあたしを上からじっと見据えて、静かに言った。


「泣いてなんか」


 手をふりほどこうとしたけど、あっさり失敗する。

 彼の腕が力強くついてきた。


「言うまで離さない」


 ……言いたくなくて黙ってるんだ、少しは察しろ。


「オレと会うのを延期しといて、一人でそんな顔してるとか。ありえねー」


 あたしはため息をついて、机の上に置いたそれに向きなおった。

 セロテープだらけのそれは当然、彼からも丸見え。だいたい、察せられているとは思うけれど。


「原稿、引き裂かれちゃった」


 きもいって言われちゃったと、その声は覆った手の中から響いた。


「学校のやつか」


 ためらったのち、ひとつ、頷いた。


 純が鋭く息を吐いて、拳で軽く原稿をたたいて示す。


「見たところ悪質な、前から続いてる類のやつだな」


 そのサングラスは千里眼ですか。

「なんでわかんの?」

「この手のいやがらせはだいたいそうなんだよ」


 がたっと音を立てて隣の席の椅子を引いて、彼はむんずと腰かける。

 ウェーブがかった髪を無左座にくしゃっとやって――言った。



「……みみっちいことしてんじゃねーよ」



 怒ってくれるんだ。



「なにかを表現すれば、バカにしたり、理由もなく批判したがる輩は一定数出てくるもんだけど。にしてもこれは、ない。ありえねー」



「……ありがと」



「崖っぷちみたいな心境だったけど。そう言ってもらえて、どうにか屋上の真ん中に戻ってこれたよ」

 それは、無意識に出た例えだった。

 けれど――純の瞳は、大きく揺れた。

「花乃。お前……」

 体勢を崩した証拠のようにがたりと彼の椅子が音を立てる。

「死のうとしてるヒロインに声をかける、死神を描いたのって。そうか。あの救いの言葉は――」

「ん? なに?」

 純は顔を片手にうずめて、首を横にふっている。

 かすかに開いた瞳は、傷むように伏せられていた。

「わかったんだよ。人生のデザート。お前の中から、あの表現がでてきたほんとの理由」

 え。なに。なんなの。

 早まっていく鼓動。

 この不安で怖い気持ち。

 待って。

 それ以上は、言わないで――。


「お前はその言葉を、自分自身にかけ続けてたんだ」


 パキリと、心の中なにかが音をたてて割れた。

「あ……く……っ」

 息ができない。

 もう、傷みに蓋は、二度とできない。

 彼の彫刻刀はあたしが心に覆っていた木片を、完全にはがしてしまった。


「――花乃」


 完全にパニック状態のあたしを呼び戻すように、低い声が響く。

 手を力強く、握って。

「もし、もしも――消えてなくなりたいって思ったとしたら。消える前に一回必ずオレのとこに来い」

 その声を聞いていると、なぜだろう。

 呼吸が、徐々に戻ってくる。

「この世界にはきれいなとこもあるってとこ見して、そんなやつらのことなんか忘れさしてやるから。だから」


 戻って来た息を大きく吐き出したとき、小指を小指に絡められた。

「いいか、ぜったいだぞ」


 小指同士が鎖のようにがっちり絡まって。

 このまま離してくれそうにない。

「わかった……約束、する、から」

「よし」

 あたしの背中をゆっくりとさすりながら。

 かぎりなく優しい声が言う。

「手始めに、びっくりするほどきれいなもん見してやるから――ついてこい」

 偉そうな口調とは裏腹に、椅子から立ち上がった身体を支えてくれる手も、まなざしも。

 なにもかもがあたたかくて、失われた平静を取り返してくれるようだった。

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