Act18. ナイフに見せかけた彫刻刀

 カフェを出たあと、みんなで少しだけ砂浜を散歩した。

 寄せては返す波の色はもう、鮮やかな蜜柑色。

 その上に広がる空は、桃を濃くしたような色をしていた。

 数メートル前を歩く夏陽と藤波くんを邪魔しないように、純と二人、わざとゆっくり歩く。

「大事な友達なんだな。夏陽ちゃんって、あの子のこと」

 純も女の子をちゃんづけするんだ。

 なんかおかしくて笑えてくる。

「純にとっての藤波くんもね」

 そう切り返すと、純は照れたようにくすりと笑った。

「デビュー当時からいっしょに戦ってきた仲間だからな」

 ざぶーんと、ひときわ高い波が打ち寄せて、トルマリンのような水飛沫を打ち上げていく。

「小説、読んだけど」

 はっとして、あたしは一歩だけ前を歩く純の横顔を見上げる。

 白く透き通るような肌が夕日を浴びてかすかに茜色に染まっていた。

「ヒロインが、ロックバンド少年への気持ちを自覚するところまで、よく書けてた」

 桃色の空から想起されるその味を噛み締めるように、うつむく。

 デザートに行きつくまで。

 もう少しだけ、人生を味わってみよう。

 そう決意して、思い切っていじめっ子に言い返してみたのはいいものの、事態はそうかんたんに変わるわけはなくて。

 余計にひどい嫌がらせを受けてしまい、ヒロイン音乃が泣いているとき。

 頭に手を当てて、いつものポーカーフェイスをちょっとだけゆがめて、ロックバンド少年の空夜くうやは言う。


『ごめん』


 はっとしたように涙で濡れた顔を上げる音乃。


『オレがほんとの死神じゃなくてごめん』



 舞台設定は――そう、ちょうどこんなふうな夕暮れ時にしたんだった。


『ほんとに死神だったらさ。音乃を傷つけるやつらなんか、地獄行きにできるのに』


 空夜は、少しでも音乃の涙をとめられないかと思ってそう口にしたのに。

 音乃の瞳から涙は滝のようになってあふれ出す。

 泣きながら、音乃は彼にすがりつく。


『……やだ』

『え?』 



 彼のさつまいも色の羽織りもの――じゃなくて、ダークレッドのアウターをつかんで、何度も首を横にふる。


『やだやだっ。空夜がほんとに死神だったら、手をつなぐことも、おしゃべりも』


 予測も抑止も不可能な涙のように。

 言葉が、一滴、こぼれて。


『――キスだって、できないもん』



 そうして、音乃ははじめて知る。




 あたし、彼のことが、好きなんだ。




「なんかこう、読んでて胸をつかまされた」

 笑顔の中にどこか苦しそうに顔を歪める純を見ると、胸の奥から、甘酸っぱいみかん汁があふれ出す。

 純があたしの原稿をじっくり読んでくれて。

 そして、心を動かしてくれた。

「あのシーンはね……」

 喜びにぽろりとこぼれた言葉を、寸でのところで飲み込む。




 じつは執筆していたとき、自分で書いた文章にぎくりとしてペンを止めたんだ。




 ヒロインが恋心を自覚するクライマックスまできたら、物語は結末に向けて一気にスピードを増して進んでいく。

 だけど。

 このまま、このラブストーリーが完結したら。


 へんてこでどたばたで、時々どきどきして。

 そしてひどくほっとする時間だった。

 ちら、と、サングラス越しに夕日を見つめる純の横顔を見る。

 あたしのニセモノの恋は、終わるんだ。



「ラストシーンはどうする」



 そう訊いてくる顔も声も心なしか硬い。

 ねぇ純。

 純も、同じことを思ってるの?


「それは、まだ、考えてる。……でも」


 純が指摘したように、ロックバンド少年が、瞬間移動して二階席のヒロインのもとへ行くのは無理がある設定なので、変えたいと思っている。


 そう言うと、彼はうなずいた。

「きっとたどりつく。いいラストに」

 そして、足元に視線を落とした。

「つきあうのは告白避け、なんて言ったけど。ほんとはさ」

 かすかに笑って、一瞬あと、悔しそうに目をすがめ。


「それだけ惹きつけられたんだぜ。お前の小説に」



 顔を上げれば、夕日が海に、レモンイエローの一本道を形作っている。

 どこまでも……魔法も冒険も、ピュアな恋もある世界まで、続いていきそうだった。

「うん、嬉しい」

 最高のほめ言葉だよ。

 ――純と出会う前のあたしに向けられたものだったら。


 砂浜を踏みしめて歩き出したその背中に、そっと心で言葉をかける。

 今はね。

 小説っていう単語が、ちょっとだけ余計だななんて。

 そんなふうに思ってしまっていること。

 純は知らないだろうけどね。



 胸の中でそう語りかけた時点で、彼が歩を止めた。

 一瞬、心の声がほんとうに聞こえてしまったのかと思って、びくっと身体が震えた。


「花乃はとくに、幸せなシーンの描写がうまい。ケーキバイキングでたらふく食べて、音乃が人生のちょっとした喜びを感じる場面とか。空夜との漫才みたいなやりとりとか」

 うん。どっちも、全神経集中させて――そして、すごく楽しんで書いた。お気に入りのシーンだ。

 でも。

 やっぱり、褒めてくれるのは小説なんだね――。

 

「ネットの小説を読んで、思い描いていた作者の姿。お前はそのまんまだったよ」



 ……え?


 もしかして、今度はほんとに、あたしの心の声、聞こえちゃったの?


 そんなはずはない。

 でも、振り向いて微笑む彼は、言ったんだ。


「登場人物に、読者に、みんなに幸せになってほしいって想い。それはじゅうぶん伝わってきた。けど」

 海風をうけて心地よさそうに伸びをして、純は呟いた。気のせいかな、と。

「あんなふうにきらきらした瞬間を絶妙に書くやつって、実際は暗闇の中にいるんじゃないかって思った」

 大波がまた押し寄せて、テトラポットにあたって跳ね返る。


 きらり、頭の中で、刃のイメージが浮かんだ。


 いつも、軽口や毒舌で切れ味するどい言葉を吐く。

 一見ナイフのような、こいつの言葉。


「幸せな瞬間って、案外それに気づかないだろ」


 その正体は、彫刻刀だ。

 人を傷つけることなんかできない。

 ただ――優しく人の心の木片を削り取って。


「輝かしいギリシアの古典演劇だって、当時の世の中がすばらしかったからじゃなく、不幸に満ちていたからこそ生まれたって言われてるんだ」


 心の奥の、中心にあるものをあっという間に明らかにしてしまう。


「花乃ももし、そうなら」


 待って。

 ……やめて、純。

 これ以上、魔法の芸術で見せないで。


「すげー、悔しいよ」


 あたしに、あたしの心を。


「オレは花乃のこと、幸せにしてやれなかったのかな」


 強情で完璧主義で。

 そして純真なアーティストは、空より高い理想が果たされないと言って、嘆く。


「ライブで何万人もの人に『幸せにしてやる』って叫んでるくせに。実際にはただの一人もそうしてやれないなんて。……情けないよな」

 踏み出した一歩が、砂にうずもれた。

 いつもより一回り小さく見えるその背中を。

 駆け寄って抱きしめたい衝動にかられる。


「ちがー―」


 ちがうよ。


 純。

 幸せにできなかったなんて、それは間違い。

 あなたといるときだけ、忘れられたんだよ。あたし。

 なにもかも。


 波が静かに引いていく。

 かすかに伸ばした手は桃色の宙をきって。

 出たのは別の言葉だった。


「あたし、じゅうぶん、幸せだし、うまく、やってるんだから……」


 別の――嘘。


 その嘘さえなでてあやすように、純は苦笑した。


「ならいいけど」


 そして次に、あたしの頭をなでた。

「いいか。まずは自分を幸せにしてやんだぞ」



 スイッチに従順な涙が出ないように、ぐっと歯を食いしばる――。

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