Act15. 彼がかっこいい理由
吹き抜けのらせん階段を上って三階へ。
シンプルな扉の奥の純の部屋もまた広大だった。
「ひろ……」
リビングと同じくらいの部屋って。
まず目に飛び込んでくるのは中央の、壁いっぱいの大きさのテレビとステレオ。
その真下には様々なアイドルグループのライブやバラエティー番組のDVDがある。
見入っていると、あぁそれ、と広大な部屋の中央に小さなテーブルを用意してくれながら純があいづちをうつ。
「ほかの芸能人のライブや番組見て、どんな工夫してるのかとか研究することが多いかな」
次に目に入ったのはやはり本棚だ。
テレビ画面のある壁に接した右側の壁一面が本棚になってる。
舞台や芸能関係の本に加えて、車の雑誌や料理のレシピ本なんてのもある。
「純、お料理するの?」
「わりと。休みの日に家族に作ると喜ばれる」
オレ様上から目線アイドルのくせに、恋愛小説読むことといい、女子力高いな。
その真下にあるのは、勉強机?
英語や数学、物理、化学なんかの高校の参考書もそろってる。
ノートの隙間にちらりとのぞいている紙の片隅の文字を見て目が飛び出た。
「英文法九十五点!?」
こいつ頭もいいのか……。
感心していると、
「ちげーよばか。事務所の方針で高校はなるべく行くし、テストは必ず受けてはいるけど、英語は大の苦手で、今年最初の実力テストで赤点だったんだっつの」
思い出したように、リビングの隣のまたどでかいキッチンから持参したジュースをコップに注いでくれながら純は顔をしかめた。
「でも、ここには九十五って書いてあるけど?」
「それはこのあいだやった後期の中間。さすがにやばいと思って、仕事終わりにグループのメンバーで勉強好きな同期とっつかまえて特訓したんだ」
へぇぇぇ。
「知性派の藤波くんに、マンツーマンで教えてもらったの?」
「あいつもいろいろ忙しいから説得すんの骨折れたけどな。いい点にこぎつけたら焼肉おごるって言ったら交渉に応じた」
藤波くんも意外とおちゃめでいらっしゃる。
「夜遅くまでレッスンや仕事終わりに辛抱強くつきあってくれたんだからまぁ、それくらいは安いわな」
藤波くんもたいへんだったろうけど、疲れた身体で英文法を頭にたたきこむ純も。
「なんで、そこまで」
思わず、声が出た。
「なにもかもがんばるの?」
小テーブルの前にクッションを敷きながら、そうだな、と純は首をかしげる。
「強いて言えば、性分かな。メンバーに言わせると、超絶負けず嫌いらしいからな、オレ。アイドルだから勉学に手抜いてるなんて、悔しいだろ。人から言われる以前に自分で自分を、そう思うこと自体がさ」
そこで言葉を切ると、純はテーブルの両側に敷いた二つのクッションのうち一つをじっと見た。
「……なんかどっと疲れたわ」
「そりゃそうだ」
促されるままに、もう片方のクッションに失礼しながら、あたしは笑う。
「そんなふうに、常時120パーセントのガソリンで走ってたら、そうなるよ」
例えるならピッカピカの外車。
道行く人たちが見惚れ、眺め、乗ってみたいと思う。
山道も町中も軽やかにスイスイ飛ばす、高機能車だ。
でも、そんなふうに長旅してたら、とっくにガス欠じゃないだろうか。
なんだか泣き笑いしたい気分だった。
「……なぁ」
クッションを見つめたまま純が言う。
あれ。
座らないのかな。
「そっち行って横になっていいか」
「ん? うん。いいけど」
クッションがある場所ではなくて、こっち側がいいのか?
「じゃ、遠慮なく」
純はあたしのほうへとやってきて、腰を下ろし――。
この膝に、頭を横たえた。
かっと、顔が熱くなる。
今あたし身体中の血液が、顔に急上昇したんじゃないだろうか。
なんなんだこの状況は!
純は目を閉じ安息の吐息なんぞ吐き出している。
「すげー気持ちい。休むには格好のクッションだな」
「いや。あの」
そう無邪気に言われると、抵抗できないよ……。
体勢についてはあきらめて、代わりに気になっていた質問をあびせる。
「純って、小さいとき泣き虫だったんだ」
「まぁな」
目を閉じリラックスしたまま答えを返してくる姿がなんだか新鮮だ。
「友達とかいた?」
「うーん。小学校低学年くらいまでは、わりと一人でいることが多かったかな」
「えっ?」
意外だ。今じゃ男女ともに大人気の彼が。
薄目をあけて、ふわぁとあくびをしながら、純は付け足す。
「まぁ、何やるのも人より遅くて、しまいにできなくて泣き出すんだから、そりゃみんなほっときたくなんだろ」
なんてことないように発せられた言葉だったけど、それがみょうに胸につかえる。
そんな。他人事みたいに。
「さみしくなかった?」
一瞬、彼が薄目を開ける。
「どうだったかな。でも、もう少しだけ大人になったころかな。なんかへんだなっていうのは感じた」
そして、再び閉じられる。
「みんな同じ、価値のある存在のはずなのに。学校の人間関係には、人気とか、勉強や運動の得手不得手で、友達になる価値の優劣がつけられるような雰囲気があるような気がしたんだ」
どきっ……。
思わずうつむいてしまう。
鋭く、刀で浮き彫りにされたようなその事実は、あたしの中にもあった疑問だったから。
でも。
あたしを含め、それを今まで言葉にした人はいなかった。
「小五くらいのときかなー。数人のクラスメイトから学校の池につきおとされて」
「ええっ」
そんな。
ふつふつと怒りがこみあげてくる。
なんの権利があって、そんなこと。
「あのときのそいつらの顔は忘れないな。自分より命の価値が低いものを見る目だった」
再びうっすらと開いた目は、鋭く、斜め向こうのカーペットに向けられていた。
「そのとき思ったんだ。こんな優劣ぶち壊してやるって」
気がついたら、自分の膝の上から、いつもより少しだけ眠そうな、それでも十分勝気に見える目が、見つめていた。
「オレをはじいた世界に、オレが必要だって言わしてやるって、そう、思ったんだ」
「……」
「当時の小学生だったオレにとって、価値のある頂点がアイドルだった」
くすりと、純の口から笑みがこぼれる。
「我ながら単純思考だよな」
苦笑する純を見て、思わず言葉が漏れる。
「ううん。なんか。……恐れ入っちゃった」
ん、と純がまた目を開ける。
そう言ったあたしの声は、かすかに震えていた。
文句なしに、すごい。
なんだかすごく腑に落ちてもいる。
彼の完璧主義とストイックには理由があったんだ。
だけど。だけどだ。
「それじゃなんか……純は、がんばってる一路純じゃなきゃだめだって、常に自分に言ってるみたい」
「高性能ロボットや機械じゃないんだからさ。24時間、100パーセントフル稼働なんてできないし、ううん、そんなことしたらロボットだって故障しちゃうよ」
『エクレール』のメンバーの一人として華やかな衣装をまとって歌い踊るとき。
厳しいレッスンに死に物狂いで立ち向かうとき。
そういうときのあなたは、たしかに圧倒的な光を放っている。
「でも、がんばってないときとか、まぬけなときだって」
おっさんの絵皿に感動してるときだって。
あたしを、週刊誌の写真からかばってくれたときだって。
「純にはちゃんと、価値があるんじゃないかな?」
「――」
その目が、見開かれた。
まじまじとあたしを見上げてくる瞳の色は――惑い。
「……いや。悪い。なんか、そんなこと言われたのはじめてだったから――」
その言葉の端から、どっと疲れが押し寄せてきたかのように、抗えずに彼はまた目を閉じた。
「なんだろう。へんな感じだ。ふわふわ心地よくて、このまま20時間くらいこうしてたいような」
もごもごと口走ったあと、赤味がかった顔をかくすように、純はあたしの膝に顔を埋めた。
「うん。今、すげーほっとしてる」
……ありがとな、花乃。
膝のあいだからぼそりと呟かれた言葉にうなずく。
「うん」
ふしぎなんだけど。
「あたしもなんか、そんな心地だよ」
大きな壺の中の蜂蜜がとろりとろりと、巨大なパンに延々と流れていくような。
ゆっくりで馥郁とした、ふしぎな時間。
「って、なんでカノジョにオレみっともない過去なんかさらしてんだよ。かっこわるすぎだろ」
純の頭が、あたしの膝の上で寝返りをうつ。
「どうも、調子狂うな。お前といると。いいカレシでいようと思うのに。うまくいかない」
頬をかく彼が、
「ううん。そんなこと、ないよ」
むしろ、今までで最高に、かっこよく見える。
「……ばか。恥ずかしいだろうが」
あれ。え。
やばい。『かっこよく見える』まで口に出していたらしい。
「オレばっかりみっともないとこ見られて悔しいからよ。花乃のことも教えろよ」
「……」
あたし?
あたしは……。
ふいに、本棚の隣にあるどでかい鏡に映った自分の姿を見る。
疲れても眠たくても目をひく顔立ちを膝に乗せている彼女は、いたって平凡な顔。二つのおさげのヘアスタイル。黄色のくすんだワンピース。決して、彼みたいにきらきら輝いているわけじゃない。
語れるものなんか、あるだろうか。
あたしに、語るべきことなんて――。
そのとき、鋭く熱いマグマのようななにかが喉元に込み上げてきた。
語るべきことはなくても、話したいことなら、あるんじゃないか。
ずっとこの喉に、炎症のように溜めていたもの。
それを今、この人に話してしまいたい。
「……」
ふいに上体をねじって、顔をうつむけた。
でも、同じくらい話すのが怖い。
わかってくれると思う人がいなかったから、とりたてて話そうと思わなかっただけで、改めて意識したことはなかったけど、じつはこれ、けっこう大きなひみつなのかもしれない。
異変を悟った彼が目を開いて、こっちを見上げている。
だいじょうぶかと言いたげな瞳に、にっこり微笑んだ。
「あたしは、少女小説家志望のふつうの中二女子。それだけだよ」
右手が動いて、彼の前髪を撫でる。
「……ま、いいや。じっくり待つ」
「そのうち、話したくなるように仕向けてやる」
「なにそれ? 変な宣言」
声をたてて笑いながら、純のさらさらの髪をすく。
蜂蜜がたゆたうような時間に、ひび割れのようなかすかな痛みが走って、残った。
純が起き上がって優しく部屋の外にエスコートしてくれても。
胸の奥の隙間から、かすかなうめき声のような悲鳴は消えてくれなかった。
「あら、もう帰っちゃうの?」
純に誘われて行った玄関先で帰り支度をしていると、お仕事スタイルなのかきれいな髪をまとめ上げた麗音さんが階段から降りていらっしゃった。
ぺこりと頭を下げる。
「いろいろお話聴けて楽しかったです。お世話になりました」
挨拶しながら、思う。
さっきお喋りに夢中で言いそびれたこと、言うとしたら今しかないんじゃないのか。
ええい、言うのだ。花乃。
「じつはあたしも、麗音さんのような小説家になりたくて」
言ったーー!
「あぁ、弟から聞いてるわ。応援してるから」
すでにご存知だったー!!
「また小説の話もじっくりしましょうね」
でも嬉しいぃぃぃ!!
「花乃ちゃん」
麗音さんは純によく似たくっきりした瞳で、でも全然違う、底抜けに明るいウインクをくださった。
「おもしろい小説を書くこつはね、世の中にあるものをなるべくたくさん愛することよ」
たくさん愛する?
ふいに、玄関にかかっている花の形の照明の温度と明るさが一段増したような錯覚に陥る。
「人でもものでも。作者が好きになって心動かしたなにかから、物語が生まれるの。このすてきな気持ちを読者さんにプレゼントしたいって気持ちで書くと、いつかきっとおもしろいものが書ける」
「――」
心臓の奥から熱い血潮が満ちて、身体中に巡っていく。
このさきもいっぱい書く、書いていく――いい作品だって、たくさん書けちゃいそうな、ほとばしるようなこの気持ち。
玄関をあがった場所でにこにこ笑っている麗音さんと、あたしを送ってくれるためにスニーカーを履いている最中の純。
姉弟で、雰囲気はぜんぜん違う。
でも、話していると、心の中の奥の奥が浮き彫りにされていくような感覚は、よく似ている。
「はい。がんばります!――あ」
帰る前に思い出してよかった。
「これ」
バッグの中からいそいそ紙の束を取り出して、純に手渡す。
「途中までだけど直した小説。純の意見が訊きたくて」
A4用紙に三十枚ほど印刷された紙の束を見た純の目がきらりと光った。
「まじか」
少年のような表情が、すなおにうれしい。
「花乃を送って、帰ってきたらすぐ読む。姉貴、預かっててくれ」
麗音さんは原稿の束を受けとって、はい、たしかにとおどけた笑みを返してくれる。
とんとんとスニーカーのつま先を玄関に打ち付けて、純が強気な笑みをよこした。
「じゃ、行くか」
そして大きな扉を開く。
「おじゃましました!」
うん、きっと、踏み出せる。
ドアを開いてすぐの世界にまだ、光はなくても――。
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