Act12. 「オレのことなんかで泣くな」
入り組んだ路地裏を、住宅街を走り抜けて、ようやく入った小さなカフェのソファ席にあたしを座らせると、純はそのすぐとなりに腰かけた。黒いジャケットを脱ぐと、素早くあたしと自分にかぶせる。
ジャケットの作り出す小さな暗闇の中で、息がかかるくらい近い距離に彼がいる状況に血圧が上がる気がする。
しばらくすると彼はそこからそっと顔を出し、窓から外をうかがう。
そうしてから、ふっと息を吐いた。
「どうやら、まけたみたいだな」
「……今の、カメラ持ってた人たちって」
かすかに震える手をかきあわせなながらおそるおそる訊く。
たぶん五、六人はいたと思う。
狭い路地に入っても、執拗に追いかけてきて――恐怖を感じた。
アイドルのプライベートを追いかけて雑誌やなんかの記事にする人たちがいることは知っていたけど、実際追いかけられると、こんなふうに苦しいものだったなんて。
でも、震えるあたしを気遣うようにテーブルの水を引き寄せてすすめる彼は、しごく冷静だった。
「芸能界にいたら、事実じゃないことも記事にされることだってある。特に恋愛沙汰は。実際、ただの仕事仲間の芸能人とだってそういう関係だって、今まで何人もと記事になったしな」
そうだったのか。
すすめられた水をゆっくり口に含みつつ、かろうじてうなずく。
何人もの人との恋人の噂があるのはクズだからじゃなくて。
常に見られて噂される立場だったからだったんだ。
……今さらこんなことに気づくなんて。
ぎゅっとスカートを握り締める。
低く、押し殺したような声が、すぐ横からふってきた。
「いっしょにいたお前まで記事にさらされる可能性がある。……それだけはさせるわけいかない」
なんだろう。
胸が痛いのは、恐怖がまだ続いているのか。
それにしては、微妙で、不可解な痛みだ。
胸の奥の奥をきゅっとつままれたような、甘い痛み。
「悪い、ちょっと髪いじらしてもらう。服装は変わってないから、悪あがきみたいなもんだけど」
答えるより早く、純はあたしの髪を二つに結んでいたヘアゴムを素早く取り去り、手櫛でとかしていく。
「これでさっきよりはまし――いや」
髪をとかしていた手が、ふいに止まった。
形のいい瞳がすがめられて、髪をおろしたあたしに注がれている。
「ましなんて言葉じゃ、追いつかないな」
?
おかしなことを言う。
髪をほどいただけで、記者さんたちの目をごまかせるほど化けられたとは思えないけど。
首をかしげていると、なぜか彼は顔を赤らめて、
「……なんでもねーよ」
ぱしっとおでこをはたかれた。
ごまかすように水を含むいつも華やかなその横顔は、やっぱりとても疲れているように見えて。
甘い痛みが再燃する。
「ねぇ」
あたしは沈黙を破った。
「ほぼ一日中通しで仕事って日が続いてるんだよね。いつからなの?」
純は少し考えるようにして、
「中学生のときにグループ結成して、ほどなくして仕事が入るようになって、それから、ずっとそんな感じ、かな」
それも、考えてみれば当然のこと。
『エクレール』が結成当時、新進気鋭の中学生アイドルとしてかなり話題になったことも、知っていた、はずだ。
それでも。
三年近くもずっと働きっぱなし?
改めてつきつけられた事実に、眩暈がする。
「いや。そのあいだ休憩だってあるし。学校行ってる時間だってあるし」
苦笑する純に、首をふった。
「だったらなおさら。大部分が厳しいレッスンや仕事で、プライベートも、今の記者の人とかに追われてるんだよね」
仕事のときは監督さんに振付師さんにファンの人々に。プライベートでは記者さんに。四六時中誰かに見られてる。――いや、それをとおりこして、監視されてるみたいだ。
想像すると、ぞっとした。
「もしかして、すごく疲れてるんじゃない?」
一路純は完璧主義のストイックって言われてるって夏陽からきいた。
実際、今目の前にいる純は完璧だった。
レッスン中、キレキレに踊って、それでも監督さんの出してくるレベルにはほどとおく、完璧なできではなかったらしい。でも。
めちゃどなられてたけど、それでもへこたれないで続けて、しかも仲間を想って意見まで堂々出す。
それはあたしの目には完璧な姿に映った。
「いつも完璧でいなきゃならなくて。かっこいい強い自分でいようなんて。……つらくないのかなって」
――痛い。
傷口に甘い砂糖が流れていくような、おかしな痛み。
ふっと陰った目をごまかすように、純は顔をそらした。
横を向いた目はすでに自信家なオレ様アイドルに戻っている。
「ま、オレは素がかっこよくて強きヒーローだからな。これくらいはなんでもな……おい」
気づいたら視界がにじんでいた。
「嘘だよ。そんなのつらい。つらいよ……!」
――少なくともあたしはそうだから。
狭い箱のような教室の中、一人きり、強い自分でいる。
傷ついてなんかないふりをして。
つらいって口に出したことはない。
だって悔しいじゃないか。
でもほんとうは。
つらくない? って誰かに言ってほしくて、たまらなくて。
「か、カレシなら、疲れたときには、疲れたって言ってよ。つらいときにはつらいって」
純は吐息をつくように笑った。
「お前が泣くことないだろ。ほんとおかしなやつ」
あたしの涙を弾くように、そのきれいな指でぬぐう。
「……そうだな。ほんのちょっとこたえてたかもしれない。でも」
レストランの照明をともして木漏れ日の粒のように光る目で、純はあたしの涙で濡れた親指を見つめた。
その瞳が、なにかをかみしめるように細められる。
「これでぜんぶ帳消しだ」
「なにそれ」
彼の言うことは、たまによくわからない。
わからない言葉がどうして涙を助長する。
「もうだいじょうぶってことだよ」
頭に柔らかな手の感触がする。
「わかったら、オレのことなんかで泣くな」
その言葉にも関わらず、優しく頭をたたきつづけるその手がスイッチの機能を果たしているかのように、あたしは泣き続けた。
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