#5 尾行欲

「人間の三大欲求の一つに尾行欲ってのがあるだろ?」山田はさも一般常識かのように平然と言った。りんごって果物だろ? と同じくらい、言わなくても分かってると思うけど一応確認のために言いましたよ、程度のニュアンスだ。

「僕の知ってる三大欲求には入ってないな」僕は、あまり大きなリアクションはせずに言葉を返す。山田の突飛なセリフにいちいち反応していては、こちらが損をする。

「なんだ、じゃあお前の知っている三大欲求を言ってみろよ」山田は語気を強めて訊いてくる。

「まあ一般的には、食欲、睡眠欲、性欲って言われてるはずだけど」

「なんだそれ。そんなものが三大欲求なわけないだろう」山田は鼻で笑う。「そんなものは欲求じゃない。生きるための最低限の機能だ」

「機能?」思わず聞き返してしまう。山田がにやりと笑う。

「いいか、食事やら睡眠やらセックスなんてのは、生きるために必要な絶対やらなきゃいけないことだろ? 食べないと死んじまうし、寝ないと死んじまうし、セックスしないと死んじまう」

「セックスはしなくても死なないよ」

「でもセックスをしないと人類が滅ぶ。だから欲というよりも生き物としての機能なんだよ。生き物としての最低限のルールみたいなものだ。時計ってのは正確に時間を計る機能を持っているから時計と言えるだろ。時間を計れない時計なんてのは時計じゃない。時を計ると書いて時計だ。同じように、食べて、寝て、セックスできるっていう機能を持っているから俺たちは生き物って言えるんだ。時計が、『時間を計りたいなあ』なんて言わないだろ? それは、時計が時間を計ることは欲じゃないからだ。わかるか?」

話し出した山田を止めるのはかなりの労力を使う。それを知っている僕は、とりあえず、「ああ」とだけ声に出しておく。

「そもそもいまの三つは他の動物にも言えることだろ? そんなものは欲じゃない。欲ってのは、もっと人間らしいものを言うんだ。特に現代社会ではな」

人差し指を立てて、誇らしげに山田は話す。自分の考えを披露している時の山田の顔は、確かに欲にまみれているような気がする。これを自己顕示欲というのだろうか。

「まあ、聞いてやるよ」僕は大人しく、山田の欲に従うことにする。抵抗したところで、どっちみち結果は同じだ。山田は話し出す。

「経済が発展した現代の国々では、もはや人間は他の動物とは異なる。大昔の原始時代くらいまで遡ってみればお前が言った三つも欲求と言えたかもしれない。それしかやることがないからな。欲求を生存と絡ませることしかできなかったんだ。でも今は違う。もはや食事、睡眠、セックスは最低限やればいいだけのことで欲求は別のところに移った。人間にしかできない、人間足り得ることこそが、欲と言えるのだよ」

「人間らしいってなんだよ」一応、会話のアシストを出してやる。

「よくぞ訊いてくれた。人間らしい、つまり欲ってのはな、やらなくてもいいことをこれ以上望むこと、だ。人間は、食べて、寝て、セックスさえしていれば生き残れるにも関わらず、それ以上のことを望んだんだ。一番わかりやすいのは、知識欲だな。人間はなんでもかんでも「知りたい!」っていう欲を持ってる。だからここまで人間社会は発展できたし、お前が欲について俺に質問しているのも知識欲の表れってわけだ」

「別にそこまで知りたいわけじゃない」僕は否定するが、山田は気にせず続ける。

「それに最近は優越欲ってのもあるな。他人よりも優位な存在でいたい、より良い生活を送りたい。受験やら就職やらでいいところに行こうとするのは、他のやつよりも偏差値や年収を高くすることで、優越感に浸りたいからだ」

「それはさすがに言いすぎな気がするな」僕は少し強めにツッコんだ。「純粋に行きたい学校、行きたい企業を選んでいるやつだってたくさんいるだろ」

 山田は、「うるせえな」と頭を掻く。今いいところなんだから邪魔すんなよ、とでもいうようにさっきよりも声を気持ち大きめにさらに放つ。

「そして達成欲もある。困難なことに挑戦したい、何かを成し遂げたい、一つ一つの問題を解決することによって満足感を得たい。これは立派なことだが、一つの欲求だ。仕事ができるやつってのはこの達成欲が強い。達成するために積極的に行動し、成果を出すからな。就職の面接で『僕は達成欲が強い人間です』とか言っとけば、どこの企業も欲しがるさ」

「それも言いすぎだな」

 今度は自覚していたのか、「これは言いすぎだ」とあっさりと認め、山田はバッグからペットボトルを取り出し、水を口に運ぶ。そしてすぐに蓋を閉め、潤った状態の喉をさらに使い始める。

「でだ、ここからが重要なんだが、今俺が言った知識欲、優越欲、達成欲、そのすべての欲を満足させる最強の欲ってのが存在する。なんだかわかるか?」今日一番のにやり顔は、僕を若干いらだたせる。

「知らん」僕が吐き捨てるように言うと、山田はやれやれと肩を動かし、身体を前に乗り出して、言った。

「尾行欲だ」

「ええ」思わずリアクションしてしまった。僕のリアクションを見て一旦満足したのか、山田の乗り出した身体は引っ込んだ。

「いいか、尾行欲ってのは、すごいんだ。色んな欲を開放させることができる。まず知識欲。尾行する相手のことが知りたい。知りたいから尾行する。尾行することで相手のことをよく知ることができるから知識欲が満たされる。自分が知らなかったことを知ったりなんかしたときの興奮は計り知れない。続いて、優越欲。尾行する側とされる側、どちらのほうが優位だ? 断然尾行する側だ。尾行することによって、その相手よりも優位な状態になり、優越感に浸ることができる。相手の弱みなんかを握ったあかつきには、最高のエクスタシーを感じることだろう。そして、達成欲。尾行という難しいミッションをやり遂げることで、何物にも代えられない達成感を味わうことができる。他にも尾行することで得られるものは多くあるが、とにかく、尾行することで多くの欲を一度に開放することができるんだ。つまり、そんな効率的に欲を開放させることができる尾行がしたい! という尾行欲こそが、人類の欲望の頂点に君臨する偉大な存在なんだ」

 長々と説明されて、僕は少し黙った。納得したわけでも、理解したわけでもなく、単に疲れてしまったのだ。山田の話を聞いているとなぜか元気がなくなる

「よくわかんないけど」僕はしばらくして口を開く。「結局何が言いたいわけさ」

「そう、ここからが本題だ」

まだ本題じゃなかったらしい。とにかく話が長い。

「お前を尾行させてくれ」

「えええ」もうリアクションを我慢するのも面倒くさい。

「俺はいま猛烈に欲に飢えている。欲求不満ってやつだ。だから効率的に欲を満たせる尾行がしたいんだ。で、お前だ」

「いやいや、尾行する相手に尾行していいかなんて訊くのおかしいだろ」

「おかしくない。俺は欲を満たしたいだけなんだ。お前と俺は一応友人という関係だろう? 尾行することで生まれる罪悪感のようなものを感じたくないんだ。だから、前もって言っておくことで罪悪感、つまり罪の意識をなくしておくんだ。女性をレイプすることは罪なことだが、お互いに同意であれば、それはSMプレイと言えるのと一緒というわけだ」

「性欲は欲とは違うんじゃなかったのか」僕が言うと、レイプは性欲ではなくて支配欲だ、とまた面倒くさいことを言い始めたので、とにかく僕は、尾行はやめてくれ、と断った。

 山田は、どうしてもダメか? と食い下がったが、僕が首を縦に振らないことがわかると、心底残念そうに溜息を吐いた。

「じゃあ俺はどうすればいいんだ」

「まあ、その尾行欲とやらが三大欲求の一つだとしたら、残りの二つで欲求不満を解消すればいいじゃないか」僕は、一応山田を励まそうとする。

 すると山田は、下げていた頭を上げて、目を見開いた。

「そうか……そうだな」

「ちなみに他の二つってのはなんなんだ?」僕は訊く。

「お、知りたいか? やはりお前は人間らしい奴だな」すっかり元気を取り戻した山田は、僕をおちょくってくる。

「いや別にそこまで知りたいわけじゃない」励ましたことを後悔し、思わず否定してしまった。今度は、実は結構気になってしまっているなんて言ったら、山田はさらに調子に乗って永遠としゃべり続けてしまうし、何より、少し悔しい。

 ニタニタと笑う山田と視線を合わせないように下を向くと、山田のペットボトルが目に入ったので、僕は無断でそれを手に取り、一口だけ口に含んだ。

ぬるくて美味しくなかったから、「不味いな」とつぶやくと、「それは言いすぎだ」と山田は笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る