欠けた聖女(1)

 グリーンフィールド家に引き取ってもらって大体1週間ほど経って、まず気付いたのは、アルヴィンさんやアンジェラさんのことではなくて、何よりも僕自身のポンコツぶりだった。


 悲しいかな、残念ながらとやらが身に付いていないと認めざるをえない有様なのだ。


 割り当ててもらった部屋のベッドが柔らかすぎて寝付けないし、そもそも部屋をもらえる時点で落ち着かない。

 貧民街だと水洗いしてもすぐには破れない服――つまりまだ傷んでないきれいな服——は盗品確定で集団のボス格ぐらいしか着れないもので、要するに袖を通すのに凄く気が引ける。


 いや、そうではなくて、もっと単純に、掃除をするといっても廃屋じゃない時点で掃除の必要性が見いだせないとか。こんなにきれいなのに何処を掃除しろと? とか思ってしまう訳で。

 まあ、廃墟なら廃墟で、やるだけ無駄だからやらないんだけれど。


 これでも、ホントに幼かった頃でギリギリ記憶に残っているというか、何となく身についていたらしい行儀振る舞いのせいで貧民街では浮いていたんだけれど、いざお二人と生活してみると……。


 ……ボロが出るわ出るわ……。


 そんな調子で結構テンパってるのを知ってか知らずか――いや、アルヴィンさんは知ってるけれどそれはそれとしてスルーするタイプだな――いつものようにアルヴィンさんが紙の束と木の棒を差し出す。

 木の棒は初めて見るもので『鉛筆』というものだそうで、削れば書けるという不思議なものだった。


「それではカイル、今日の字の練習を始めよう」


「はいっ」


 普通の生活でも、それこそさっき挙げた掃除とかの家事諸々で教わることが山ほどあるんだけれど、並行して読み書きも毎日教えてもらっている。


 というよりも、実のところ、読み書きに割り当てられている時間の方が大きい。


 アルヴィンさん――アンジェラさんは「お姉ちゃん、お兄ちゃんと呼んで」と退かなかったが、僕の方がそれ以上に退かなかったので、結局「アンジェラさん」「アルヴィンさん」で落ち着いた。いや、救世の英雄を「さん」呼びするのだってスッゴい無理してるんですよ?――から『奈落』について教わるにしても、まず読み書きが出来ないと進まないから、ということで。

 それに、読み書き出来れば何につけても色々と幅が広がるからとアルヴィンさんが勧めてくれるので、僕も頑張ることにした。


 ……正直、かなり苦痛だけれど。身体が覚える作業とは違って、頭で覚えるってのがこんなに難しいとは思わなかった……。


「それはおそらく、意義を実感できていないから、だろうな」


 僕の苦戦ぶりの原因をアルヴィンさんが指摘する。

 筆記の休憩時間、魔術で作成、いや描画した黒板を普通に維持しっぱなしにしつつ、紅茶を片手にイスに腰掛けるアルヴィンさん。

 

「『意義』ですか?」


 同じく紅茶をいただきながらオウム返しみたいに訊く。


 それにしても、全くの無意識にしか見えないレベルで、緑ベースの濃いめの暗い光で黒板を形成して、かつ明るめの光で文字を描写した状態をキープするなんて、多分普通は出来ないんじゃないだろうか。


 澄んだ陽光と、目を閉じれば気付く程度の緩急がある涼やかな風が、窓から室内へと届いてくる。

 質感のある濃緑の光が看板のように空中に固定され、夜明けの太陽みたいな光が流麗に文字を形作る。

 それらの光たちからわずかに漏れ散る欠片は、微かな金粉が舞うようにも感じられた。


 その中のアルヴィンさんの姿。


 まるっきり普通に振る舞われているので、僕の方も驚かなくなってきたけれど、これはもの凄く贅沢なことだと思う。

 画家さんなんかは何としても描きたい光景なんじゃないかな。それこそ、全財産投げ売ってでも、とか言われても全く不思議じゃない。


 現実を侵蝕した至高の絵画の世界で、そのあるじが軽く紅茶に口を付ける。少しだけカップが傾き、戻った。


「ああ。文字を身につけることのメリットが実感できていない、といったところだろう。本来『知ること』はそれ自体が魅力的なものだが、君の場合は純粋に『知ること』ではなくて、文字をあくまで『先』を理解するための『道具』にすぎないと認識しているからかもしれないな」


 少し考え込む。

 確かに、それはあると思う。


「なるほど、『頭が良いのも困ったものだ』とはこういうことか」


 一人納得しているアルヴィンさんの呟きに、僕としては聞き捨てならない単語が混じっていた。


「いや、頭が良いって……」


 読み書きできていない時点でそぐわないのではないかと思うのだけれど、アルヴィンさんは静かに、でもはっきりと首を振る。


「ギルバートも言っていただろう? 『地頭が良い』と。現にカイル、君は。散々ギルバートに、な。俺に言わせれば、ギルバートよりも君の方が優秀だ。文字が身に付いていないことの方が違和感がある」


 問答無用で侯爵様がこき下ろされ、冷や汗混じりに硬直してしまう僕。

 天下に名高いギルバート・レッドグレイブ侯爵閣下のことをそんな風に言えるのは貴方ぐらいですよと心の中で返しつつ、話を横へ逸らそうと必死に頭を巡らせる。

 そのあたりの僕の焦りには無頓着に、アルヴィンさんの話は続いた。


「実際、まんで説明している『奈落』の概要も、全くの理解不能ではないのだろう?」


「えっと、そうです……ね?」


 話をズラす糸口になる予感がして即座に乗っかりはしたものの、果たしてそうなのか、あまりの疑わしさに疑問符を付けてしまう。

 初めて会ったあの日以降、何度か『奈落』についての話を聞かせてはもらっていて、確かに、初めの『さっぱり理解できない』状態から『分かるような分からないような』状態にはなった、と思う。

 が、それは結局何も分かっていないのと同じだ、とも思う。


 けれど、そう言えばちょっと疑問だったことがあった。


「そう言えば、エネルギーの流れ?――大きな川を思い浮かべればいいんでしょうか?――それが集まる場所に負の指向性が定着?――ええと、負の感情が根付いたものが『奈落』、とすると、


 曖昧にブレながらの拙い質問になってしまったが、何とか話題を逸らせた。

 ただ、内容は口から出任せというわけではなくて、疑問と言うほどではなかったけれど、頭の片隅で本当に引っかかっていたものだ。


 アルヴィンさんの目が心持ち見開かれて、少し輝いた、ような気がする。口の端も、ちょっと上がった、ように見えた。


 何だか、楽しそう、だ?


「カイル、君はやはり聡い。ケースとしては非常に稀だとは思われるが、君の言うとおり負ではない指向性、する事例もある。同時に、それが『奈落』を無効化できている第一の理由だ」


 意外な高評価にも驚いたけれど、疑問が良い線をいっていたみたいで、話を逸らせる目的だったのを綺麗に忘れて思わず聞き返す僕。


「正の指向性、ええと、正の感情が根付いたものが『奈落』を無効化している――つまり、ということですか?」


「正解だ」


 舞い上がりそうになった。

 正解、と言われることも凄く嬉しかった。けれど、それだけじゃない。


 ――ということは、僕の中の『奈落』も正の感情で打ち消せる、ということではないのか?――


「そこまで単純というわけでもないんだがな、カイル。『奈落』の内部、『奈落』それ自体に正の指向性を造り上げて相殺しているわけではない。負の指向性を持つ『奈落』の上に、正の指向性を持つ者を配置することで相殺しているんだ」


 アルヴィンさんの補足で少し冷静さを取り戻す。

 うん、物事はそんなに単純じゃない。


「君の中にある極小の『奈落』に対してどのようなアプローチが最適かは仮定と検証を重ねるとして、ただ、基本的な考え方はそれで合っているだろう」


 よし、と思わずガッツポーズを取りそうになった。

 が、それも心の中だけで留めておく。急かない急かない、冷静に冷静に、うん。


 で、落ち着きを取り戻そうと、呼吸に意識を持っていってる間に、ふと思った。


 ――正の指向性を持つ? それは――


「――アルヴィンさん、正のって、ですか? ですか?」


 ここが『奈落』の真上だとは聞いた。

 そしてここには、この草原にはこの家しかない。

 住んでいたのは、アルヴィンさんとアンジェラさんだけ。


 が『奈落』を抑えこんでいる?


 何となく、答えは分かっているような気がした。


「アンジェラ姉さんだ」


 アルヴィンさんの回答は、思った通りだった。

 アンジェラさんから溢れる仄灯りのような靄のような光、穏やかで柔らかで、明るく無邪気な笑顔。イメージでしかないけれど、『奈落』の対となるならアンジェラさんが最もしっくり来る。


 でも、伝え聞く『奈落』をたった一人で抑え込めるなんて。


「凄いですね」


 何の他意もなく、ただ純粋に言った一言だったけれど、アルヴィンさんの顔が曇った。


「だとしても、それが優れているとは限らない」



(続く)

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