『奈落』の上の聖女と聖者(5)

 小さな家、と思っていたら、近づいてみるとそうでもなかった。


 さっきの僕の位置からは見えなかっただけで、奥へと細長い構造になっている。

 色濃い茶色の木材の柱も、落ち着いた白色の漆喰の壁も、この家が古い建物ではないことを物語っていた。

 艶消しの白壁などはくすんでいるところもなく、かといって、新築の素っ気なさもなく、誰かが住んでいる家っぽさというか、親近感みたいなものを覚える。


 けれど、それだけでもないというか、何だろう、温かみみたいなものも感じられる気がした。

 僕が暮らしてきた街の建物で、こんなふうに思ったことは無かったので、不思議というか、何なら違和感すらあるぐらい――


 ――そう、違和感だ。

 それは、建物から親近感を覚えることでも、温かみみたいなものを感じることでもない。そういった不思議な感覚のことじゃない。


 近づきたくないと思うことだ。


 言葉にすると極端だけれど、これ以上近づくと気が抜ける、いや、何かの支えを失って倒れてしまうんじゃないかという予感がする。


 聖者の後に続いて、さらに近づいていくと、家の周りに極うっすらと、靄のような光が漂っているのが分かった。

 いざ気づくと、既に僕の周りも囲んでいるし、それ以前に草原を覆っている。より濃いところへと足を踏み入れて来て、ようやくその存在に気がつけたぐらいに、とにかく薄い。


 そんなに薄いのに、気づいたら体が一気に重たくなった。

 体に力が入らない。足が重い。手を挙げようにも力の入れ方が分からない。頭が地面へと引っ張られる。自分の呼吸がはっきりしない。

 なのに、僕の中で知らない僕が急き立てる。前へ、前へ、手を伸ばせ、と。

 体の声と心の声が、一致しないどころか反発している。


 家の扉の前に着く頃には、何もかもが遠くに感じられていた。


「……まずはそこからか」


 僕の様子を見ていたグリーンフィールド様が独り言のように呟いた。


「――?……」


 返事もできずにただ見上げる僕と視線を合わせてから、彼が扉をノックする。

 家の中で誰かが近づいてくる足音があり、扉の向こう側まで来たところで、グリーンフィールド様が「ただいま、姉さん」と声をかけた。


 扉が開く。


「お帰りなさい、アルくん」


 中から溢れる、蝋燭のようなランタンのような、柔らかいヴェールのような、黄と橙をそれぞれ仄かに足して混ぜ合わせたような灯り。

 その灯りを背にしているのに、その女性の顔は影に埋もれずはっきりと分かった。

 一言にまとめれば、聖者と似た美しい顔立ち。だけれども、目元や口元、頬の辺りが聖者よりもぐっと柔らかく丸く、受ける印象はまるで違う。

 髪色も白銀ではなく白金、ふわりと軽やかに舞うそれは、まるで朝陽で染めた上等な絹糸のようだ。

 シンプルなワンピースのフレアスカートもふわりと漂う。


「あら、お客様?」


 ……このときの記憶は、ここまでしか残っていない。

 気が付いたとき、僕はベッドに寝かされていた。


「目が覚めたかしら?」


 見覚えのない――天井? と思った傍から、視界の横からひょいっと顔と声が入り込んできた。


「あ……」


 さっきの記憶どおりの、聖者に似た、そして聖者とは異なる顔。あどけないとも言えそうなほどでもあって、なのにとても落ち着いた穏やかさがある。

 それと、今になってようやく気づいた。逆光でも顔立ちがはっきり分かった理由は、女性がまとう霞のような光が彼女自身を照らしているからだ。


 まるっきり、輝く人だ。もしくは、薄ぼんやりとした光のヴェールに包まれた人。

 どっちにしても、この世の人とは思えない。

 天使だとか天女だとか言われた方が正しい気がするその人は、ある意味最も似つかわしく、もしくは全く似合わない程に、無邪気に笑った。


「アルくーん、カイルくん起きたよー?」


 明後日の方向へと耳障りの良い鈴みたいな声が飛び、間もなくグリーンフィールド様が現れる。

 かがみ込む聖者。


「具合は良さそうだな」


 確かに具合は良くなった。何だか分からないけど重かった体が、すっかり元通りに感じられる。それどころか、以前よりも軽くなったぐらいだ。ただ、どこか心許ないというか、頼りないというか、何かが欠けている感もあった。

 なら不安なはずなんだけれど、その割には、不安どころか安心だったりする。


 自分がよく分からない……って、ちょっと待て、というか、今、ベッドの横に膝を突いているのって、グリーンフィールド様とそのお姉さんだよな? 確か吟遊詩人が謳う2人の英雄って、“聖女”と“聖者”の姉弟だったから、つまりこのお二人、じゃなくてお二方は――


 跳ね起きた。それはもう、文字通り『跳ね』起きた。


「はいいいいいっ! だ大丈夫ですぅっ!」


「あ!」


 聖女様の一言に合わせるみたいに、僕の体がふらつく。

 あ、やば――と思った次の瞬間には、何かに受け止められたように体が止まった。

 今日何度目かになる、黄色と緑を混ぜ合わせたような透明な光。グリーンフィールド様の魔術だ。


 ほっとした顔から軽く頬を膨らませた顔まで、さくっと表情が変わる聖女様。結構表情豊からしい。


「だめよ? 危ないから」


「はい、ごめんなさい……」


 それにしても、僕はどうしたんだろう?

 体が楽になったのに不安定だし、不安と安心が同時に感じられるし、どうにも自分の取り回しが上手くできないというか……。


「楽になったら心許ない、か?」


 唐突に言い当てられて、ぎょっとした。

 声が出ない僕へ、聖者が淡々と続ける。


「カイル、今、君の中にある極小の『奈落』は完全に抑え込まれている状態だ。だから、体が楽になったと感じているはずだ」


 その通りだった。

 この家に入る前に感じていた、地面へと引きずり込まれるような重さは、もう欠片も感じない。いや、生まれてきて初めてと言っても嘘じゃないくらいには体が軽い。

 けれど――


「しかし一方で、力加減が分からないと感じてはいないか? 今までと同じようにしようとしても、どうも体が動きすぎてしまう。そして自分が軽く、いや、脆くなってしまった。そんな奇妙な感覚だ」


「は、はい」


 グリーンフィールド様に、見事に言い当てられた。

 そう、まさにその通りで、ちゃんと言葉になるとしっくりときた。

 うなずく僕へ、聖者もうなずき返す。


「それは『奈落』の影響が弱まったからだ。君の支えとなっていた『奈落』が無力化された副反応だ」


「……は、あ?」


 言葉の意味が分からない。

 いや、意味が分かるから話が分からない。


 『奈落』が僕の支えになっていた?


「『奈落』はある種のエネルギーが集中して通過していく地点だとは言ったな? それはつまり、君の体の中にはそれなりのエネルギーが常に存在したことでもある。無自覚に、君はそのエネルギーに拠って立っていたんだ」


 自然と自分の手へと目が落ちた。その先、自分の体の中は見通せないけれど、そこを見ようとして。

 もちろん、見えるわけがないけれど。


「『奈落』の特質である負の指向性も、無意識下で、君の精神的支柱として機能していた。それを失ったことによる喪失感が君の不安の原因となっている」


「はい?」


 煌めきを揺らめきながら、白銀の髪がたおやかになびく。軽く首をかしげる聖者の目は、真っ直ぐに僕へと向けられていた。

 僕も真っ直ぐにグリーンフィールド様へと目を向けていた。もっとも、僕の方はきっと、ぽかんとした子供のような顔だっただろうけれど。

 意味がしっくりこなかったから。

 だって、その言葉をそのまま受け取ると——


「――、『?」


「そうなる。『奈落』の負の指向性とは、要するに破壊や憎悪、狂気といった、文字通り負の感情なり概念なりだ。それらは本来君にも存在するはずのもので、そこに『奈落』が代替して介在していた。いや、融合していたと言うべきか。カイル、君の中では、魔物すら生成可能なエネルギーと負の感情が、君が生きるための支えとして機能していたわけだ」


「い、いや、それは!」


 思わず遮っていた。

 でも、さすがにそれは違う、違うはずなんだ。

 だって、仮にその通りなら、僕は誰かを傷つけるか、それとも殺してたっておかしくは――


「――僕は誰も殺してませんよ!? 誰も傷つけてません!」


「君の手では、な。物体の損壊なり、人体の損傷なり、君の周りでは何らかの不幸にあうケースが多かったのだろう? それは、君の負の感情と同一化した『奈落』が魔物を生成したからだと考えられる。もっとも、まだ形を為すことが出来ない程度の、精々影程度でしかないものだったのだろうが。結論だけ言うが、まず君自身の負の感情が『奈落』の負の指向性を創り出し、その後、『奈落』の負の指向性が君の負の感情を肩代わりすることで、君自身の精神は安定を保っていた」


 ……それはつまり、僕は醜い心を全て『奈落』に押し付けていた、ということだろうか。他人、世界、運命への呪いを『奈落』に放り込んで、知らない顔をして過ごしていた……


 世界が、がくんっと大きく揺れた。

 両肩に聖者の手が乗っている。いや、両手で肩をつかまれている。


「カイル!」


 強めに言われて、揺すられたことに気づいた。


「これは不可抗力、必然の事態だ。君に責任の所在は一切無い。君の置かれていた状況で負の感情が有るのは自然、むしろ無ければ異常だ。そして、一度負の指向性を持った『奈落』は自己循環もあって勝手に増大していく。以上の一連のプロセスに君の意思が入り込む余地は無い。カイル、いいか、君のせいではない、聞いているか? 俺の目を見るんだ!」


 言葉は、単語としては聞き取れるけれど、文脈としては全く分からなかった。目に映るグリーンフィールド様の顔は真剣そのもので、目尻が切れ上がった鋭く力強い瞳が、より険しくなっている。


 ああ、怒っているんだ。


 そりゃあそうだよ。知らないフリをして、気づかないフリをして、僕は周囲に色んな被害をまき散らしていたんだ。よく分からないけれど、きっとそうに違いないんだ。

 なら、きっと、僕が悪いんだ。

 やっぱりそうなんだ。

 その証拠に、ほら、誰よりも正しい英雄が僕を叱ってるじゃないか。カイル、君のせいでって。ほら――


 ――目の前が暗くなった。


 唐突に、見えなくなった。

 温かい。何だろう。とっ、とっ、とっ、って脈打つように聞こえる音が――いや、感じる音がある。

 感じる音。体で感じる。体……僕の体、が、ある。そう、これは僕の体だ、思い出した――


 ――違う、思い出せた。僕以外の何かが僕を包んでいるから。

 感じられる、心臓の音。僕以外の。僕以外の誰かが、僕を包んで……抱きしめてくれている……から――


 ――聖女様、が。


「カイルくんは、苦しくて、悲しくて、辛かったの。それは貴方のせいじゃないわ」


 揺りかごのような穏やかさと緩やかさで、かつ、大樹のような安心感。淡く、目に留まらないほど極々淡くたゆたう仄灯りのヴェールは、その色のとおり、幽かに、柔らかく、そして温かかった。


 そう、僕の中の空白を埋めるみたいに。


 背中が、ふんわりと、撫でるように、とん、とん、とたたかれる。


「ずっと我慢してたんだよね。辛かったね」


 僕の体がちょっとだけ、びくっと、鋭く跳ねた。

 喉の奥辺りから、カタカタと、微かな震えが湧き上がってくる。

 喉と背中との中間ぐらいのどこかで、何かに、ヒビが入った――そんな気がした。そこから形のないモノが震えとなって噴き出してくる、そんな感覚。


 何が何だか分からない。善いモノか悪いモノか分からない。

 止められない。


「……あ? うぁ――ぁ、ぁ、あ、あ、ああああああ――!」


 勢いに引きずられて出てくる声は、まるで言葉になっていなかった。

 動物が吠えているみたいで、何だか凄く恥ずかしくて、どうにかして止めたかったんだけれど、口も、喉も、胸の奥も、僕の言うことを全く聞いてくれない。

 それどころか何故か涙まで流れ始めて、とうとう僕は諦めた。

 何だか分からないけれど、出切ってしまえば止まるんだろう。

 とはいえ、開き直ったとしても、恥ずかしいことには何も変わりなかったんだけれど。ああ、これ、後で死ぬほど恥ずかしくなるんだろうなぁ。


 僕が心の中でお手上げになってる間に、聖女様が聖者へと矛先を向けた。


「アルくん、難しいことを一度に言い過ぎよ? あれじゃあカイルくんには怒られてるようにしか聞こえないわ」


「む。そうか……。すまない、姉さん」


「私じゃなくて、カイルくんに」


「そうだな。すまない、カイル」


 グリーンフィールド様の申し訳なさそうな声に、こちらこそ申し訳なくなって、返事をしようとしたのに、やっぱり喉が言うことを聞かないままだった。


 結局、少しの間――僕の心境としてはバッチリ長い、勘弁してほしい時間だったけれど――幼子のようにあやしてもらって、ようよう、僕の声は僕の元へと帰ってきた。


「ご……めんなさ、い、グリーン、フィールド様、聖女、様――」


「アンジェラお姉ちゃん、ね?」


「――え?」


「私もアルくんもグリーンフィールドだもの。アルヴィンお兄ちゃんに、アンジェラお姉ちゃん。よろしくね、カイルくん」


 聖女様――アンジェラさんの笑顔は、淡いモーニングイエローのガーベラみたいだった。



(続く)

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