『奈落』の上の聖女と聖者(4)
『奈落』の真上?
……? ここが?
ふわふわと揺らめく夜光草の灯り。
きらきらと煌めく月の銀光。
夜風が柔らかく撫でていくたびに、足元の暖かい灯りのヴェールが、幽かに、おっとりと、緩い波のように遊ぶ。舞う銀粉はお淑やかな波飛沫といったところだろうか。
いや、さすがにそれは――
「それはないわーって思うだろ? だよなー、分かる分かる、うん。けどねカイル君、事実なんだよ」
また心を読まれたみたいに言われてしまった。
いや、顔に出ていたんだろう。唐突に言われても全く信じられない、イメージのギャップが凄すぎる。
「『奈落』ってのはね、そうだね、一種の自然現象なんだよ。だよな、アルヴィン?」
侯爵に指さされたグリーンフィールド様が簡潔にうなずく。
「そうだ」
「だってさ。『奈落』の底に魔王でもいてくれりゃあ良かったんだよなー、だったら倒せばすむ話だからね。でもそうじゃない。倒せば、祓えば、消滅させれば済むようなものじゃなかった。『奈落』は自然現象として、この世界の理として在るものだったんだ」
侯爵の声は、後半になるほど抑揚が無くなっていった。
話しぶりの真剣さ、深刻さが、事実であることを如実に物語っている。
それならば――
「なら、何故、今この状態なのですか?」
僕の質問に、侯爵は大きく頷いてからグリーンフィールド様へと笑いかけた。
というか、にやにやしている。
「はい、どうぞアルヴィン先生」
怠け者め、と侯爵へ言い返してから、聖者は僕へと向き直った。
「詳しい説明は後日として、要するに、『奈落』とはある種のエネルギーが集中して通過していく地点だ。エネルギーの流れは世界中に存在し、世界を総体として捉えたときには循環を形成していて、同様に集中する地点は他にも存在するが、『奈落』に集約される量は他とは一線を画する。その観点からは、特異点と言っても過言ではない。その地点に負の指向性が定着、滞留した結果、エネルギーが圧縮精錬されて魔物化するという状態になった」
……む、難しい。
語り方は、事務的と言えば事務的だけれど、安定した抑揚で発音も明瞭、声の高さも落ち着いたふくよかさを感じられるぐらいで、つまりは美しい。言葉ははっきりと聞き取れて理解できる。
しかし、内容はさっぱり理解できない。
にやにやしていた侯爵が吹き出した。
「はっはっは! なー、分っかり辛いだろー? コイツの話は。子供の頃からこんな感じだったんだぜ? 可愛げがないったらもう」
思いっきり冷やかされて、グリーンフィールド様が口をつぐんだ。
でも言い返さないのが意外だった。もしかしたら、自分でもそう思う節があるのかもしれない。
コンプレックスでもあるのだろうか、と思うと、畏れ多いけれど何だかちょっとホッとした。
笑いを引っ込めつつ、侯爵が話を元に戻す。
「ま、今見たとおり、アルヴィンは『奈落』に精通していてね。その仕組みや問題点も理解している。だから――」
「――『奈落』の負の指向性を抑えている、それが今の状態の理由だ」
侯爵の言葉を引き継いで、聖者が端的にまとめた。
それからもう一度侯爵が話を引き取る。
「カイル君、さっき言ったように、君は極小の『奈落』だ」
「……はい」
先ほど言われたこと。
極小の『奈落』。『奈落』と同じ性質。
――この世の全てから疎まれる、忌まわしきモノ。
――亡くなることを喜ばれるモノ。
――自分。
どうしようもないこと。
「だが、アルヴィンの元なら少なくとも君は全くの無害だ」
ぼんやりとする僕を、何も変わらない侯爵の声が引き戻した。
「無害」
「そう。それだけじゃない、アルヴィンから方法を習えば、君は自分で自分の性質を制御できるようになる。そうすれば、君は全くもって普通の人間だ」
「普通」
侯爵の言葉をオウムのように呟く僕。
その、どこも見ていない僕の耳に、聖者の声が響いた。
「何を言ってる? ギルバート。この子は普通の人間だろう」
目の焦点が帰ってくる。
ぎこちなく仰ぎ見た傍らの人は、何一つ変わっていなかった。
整然とした聖人。
いや、在るべき様に在る、本来の人間の姿――なのだろうか。
侯爵が微笑む。
それは、驚くほどに優しい笑顔だった。
「そうだったな。その通りだ」
その一言だけで、侯爵は咳払い一つの後は元の調子に戻っていた。
「ま、カイル君、そういう訳だから、そこでアルヴィンの世話になりなさい。頼んだよアルヴィン」
「分かった」
にこにこと手を振るレッドグレイブ侯爵にさらっと応えて、グリーンフィールド様も軽く手を振る。
挨拶かと思いきや魔術の仕草だったようで、とたんに透明な窓枠がフッと消えてしまった。
そして、何事もなかったかのように踵を返す。
彼が現れた小さな家を示しながら、僕へと呼びかけた。
「来なさい。姉さんを紹介しよう」
(続く)
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