『奈落』の上の聖女と聖者(3)

 “聖者”アルヴィン・グリーンフィールド。


 この世界にあった災いの元凶、『奈落』とも『大魔窟』とも『冥府への隧道』とも呼ばれた――ちなみにこの国では『奈落』と呼ばれていた――無限に魔物が湧き上がってくる広大な穴、それを消した英雄の一人。


 『世界』ではなく『史上』最高の魔術師。

 属性を完全に無視した万能魔術の創設者。

 高位の司祭以上にしか使えないとされる聖属性魔術『浄化』を上回り、死霊の大群をまとめて浄化、しかも連発できる、聖なる神の代行者。

 常に理知的な姿勢を貫き、万の魔物とも威風堂々と相対する、まるでおとぎ話の英雄。

 そう、主人公に相応しい容姿とともに、その規格外な力を数々の吟遊詩人に謳われる偉人。


 ただ、誰しもが知っているけれど、実際に会った人は驚くほど少ないらしい、謎の人物でもある。

 歴史の表舞台に現れた期間も10年前、『奈落』消滅の時期だけだ。


「けどな、カイル君。そんなに畏まることはないぞ? そいつの名前の『グリーンフィールド』は家名じゃなくてな、単に“草原の”って意味だ。貴族じゃなくて平民なんだよ、身分で言うならね」


 そう軽く言った上で、「元男爵家に連なる君の方が身分は上だね」と、カラカラと笑った。


 唖然とした。

 てっきり、由緒正しい家系の方だとばかり思っていた。


 青い月を背に、蝋燭のような優しい灯りの絨毯の上に、銀光をまとい立つ姿。

 背筋が通った黒衣に神秘的な銀髪、金糸の刺繍と5色の銀の指輪。


 雲上人にしか見えない。


 いや、そうじゃなくて。


「いえ、グリーンフィールド様が行われた偉業を思えば畏敬は必然です」


 重ねて頭を下げた。

 実際、仮に貴族だ平民だは差し置くとしても、世界を救った英雄なんだから当たり前だと思う。


 そう思うんだけれど、何故か2人は妙に感心している。


「な? アルヴィン。地頭が良いってこういうのを言うんだろーなぁ」


「確かに」


「このくらいが良いんだよなー。お前みたいに超えちゃうとホンット生意気で意味不明になっちまうからなー」


「そうだったか?」


「カーッ、自覚無ぇよこいつは。当時15歳の子供の態度じゃなかったっての」


 ふん、と鼻であしらうだけのグリーンフィールド様に、大げさにのけぞるレッドグレイブ侯爵。それから侯爵は楽しげに笑い出した。

 それから、僕は目を奪われた。


 聖者が微笑んだ。

 まるで、この夜が笑ったみたいだ。


 そう言えば、『奈落』消滅の決戦では、2人の英雄を中心としたパーティーを王国軍がサポートしたと、吟遊詩人たちの詩にあった。

 レッドグレイブ侯爵家は“王国の剣”と名高い武門の家系。当時の戦友、だったりするのかもしれない。


 夜が微笑んだのは一瞬で、すぐに真顔に戻った。


「で、どうしてこの子を寄越した?」


 陽々とした雰囲気から変わって、やや真面目な顔つきになった侯爵が、机にひじを突いて掌を組んだ。

 顔の下半分が隠れて、目が覗いてくる。


「取りあえず手紙を読め。お前なら数秒で足りるだろう」


 言われたとおりにグリーンフィールド様が手紙の封を切る。

 中には便せん10枚近くありそうだ。

 さすがに数秒は――と思っていたら、本当に読み切ってしまった。

 読み終わって便せんを折り畳むところまでノンストップでして、それから侯爵へと顔を向ける聖者。


 心なしか、顔つきがほんの少し険しい気がした。


「本当か?」


「本当だ。その子は極小の『奈落』だ」


 僕の体が、びくっと小さくふるえた。

 正直、僕にはよく分かっていない。けれど、僕の周りで物が壊れたり人が怪我したりすることが多く、小さい頃から不吉だとか悪魔憑きだとか言われてはきた。

 それが、成長するにつれて段々酷くなってきて、ついこの間、騎士団に捕まって、よく分からないうちに侯爵に引き取られたのだ。


 僕があの『奈落』と同じ。


 なら仕方ないんだろうな。


 そう思った。


「だから、そこが最善だと判断したんだよ、アルヴィン」


「ふむ」


 ぼんやりする僕を2人が見ている。

 そうか、あの『奈落』を消せる人だ。

 僕も安全に消せるってことか。

 普通に処刑するんじゃダメだったんだな。


 そうか、じゃあ仕方ないよな。


 そう、思った。


 聖者が指輪を軽く撫でる。

 夜光草の灯りが震えるように揺れ、足下から光が銀粉のように舞い上がる。


 僕の周りに、黄色と緑を混ぜ合わせたような透明な光が、まるで檻のように組み上がった。

 格子を辿るように明滅する光が、いくつもいくつも走っている。

 頭上から薄い光の膜がすっと降りてきて、僕を通って、足下へ抜けていく。

 その度に、空中にメモのように文章が浮かび上がった。読めないけれど、緑色の文字列の一部が青だったり赤だったりになっている。

 それが何度か繰り返された。


 そして消えた。


「……?」


 生きている。

 何ともない。


 自分の手を見る僕を余所に、聖者が侯爵へ淡々と言った。


「なるほど、確かに『奈落』と同じ性質があるな」


 うなずく侯爵。そして改めて問いかける。


「どうだ、アルヴィン?」


「この規模と程度なら問題ない。ここなら何の問題もなく暮らせるだろう。この性質を制御もしくは抹消できるかは、まあ今後のこの子の努力次第だな」


 侯爵の手が下がり、口元が現れた。

 にっ、と笑っている。


「じゃあ頼んだ」


「分かった」


 2人の間で交わされる言葉に理解が付いていけなくて、僕は目が丸くなってしまう。


「え……あの……処刑しないんですか?」


「しないよっ!?」


 僕の言葉に、かえって侯爵は驚いたみたいだった。

 ごほん、と咳払いをして元のフランクさを取り戻す侯爵。


「カイル君、今から君にはそこで生活してもらう。そこなら安全だからね、君にとっても周囲にとっても。君の体質?については君次第なんだが、まあアルヴィンが手を貸してくれるから心配しなくてもいい。頑張りなさい」


「え? でも、『奈落』なんですよね、僕。なら消さないと……」


「しないしない。というかね、そう簡単に消せないんだよ『奈落』ってやつは。現に『奈落』は消滅してはいないしね」


 『奈落』は消滅していない? それは僕のことじゃなくて、いわゆる世界の厄災で、10年前に封滅されたはずの『奈落』のことだろうか?


 僕の心の内を読んだみたいに、侯爵は朗らかなままで続けて言った。


「そう、機能させていないだけで『奈落』はまだ存在してはいるんだよ。そこにね」


「ここ?」


「そう、そこは『奈落』の真上なんだよ」



(続く)

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