2. 天使に会った日

「天啓を賜りました」

 曇り空、灰色の街、いつも通りの日々。

 急いでいたせいもあって、ふと目にした信号機が赤を点していることに驚きながら足を止めた、その時だった。

「あなたは私と結ばれるべきだ、と神は仰っています」

「て……テン、ケイ王が玉を……神が、え、結ばれ……なんだって?」

 肩で息を切りながら、突然現れた少女と、未だ赤色のランプが光る信号機とを交互に見る。

 緑色のワンピースに合皮のジャケットとは、独特なファッションセンスの持ち主だ。僕の手提げのバッグが黄色に近い色だから、奇しくも信号機の色はひと通り揃っている事になる。

 いや、そんなことは今はどうでも良くて。

「ですから」

 少女は、こちらの記憶する限り確実に初対面であろう僕に向けて、これでもかというほどの嘆息を漏らしてから、やはり全く理解の出来ない二の句を継いだ。

「あなたと私は結ばれるべきだ、という天啓を賜りました」

 息が整ってきた。

「ああ。天啓の、テンケイか。そりゃあそうか」

「ご理解頂けましたか」

「いただけてたまるか」

 今まで信じていなかった人間の第六感というやつが今覚醒した。まず間違いなく、この子は電波だ。

 なるべく少女と目を合わせないように、信号機へと顔を向ける。未だ未だ赤を点すランプは、むしろこの状況に対する警告灯なのかもしれない。

「ふう………………そうですよね。無神論者のあなたには、神の御声を拝聴させて頂く事すら叶わないでしょうから」

「あからさまに長いため息を吐くんじゃない」

 くどい言い回しと、どこか非信者を見下したような口調。本物の上辺だけをもじったありがたい教えとやらの影響で、我らこそが真なる神の代弁者だとでも言いたげな態度。こういう手合いは最近多い。

 ファッションセンスどうこうは別として、上から下まで小綺麗な服装をしている少女から推察するに、またぞろ、どこかで思想集団が立ち上がったのだろう。

 既存の宗教団体とは全く関係の無い彼らは、優しい人当たりと余裕のある口調で、現状に不安な人々の心情につけ込み、まんまと信じる者の足元を掬うのだ。何か見落としている気がする。

 そして。最近は至る所でそういう集団が立ち上がったせいもあってか、その勧誘方法は日を追うごとに強引な方向へとシフトしていった。

 時には食べ物で釣り、時には物で釣り、極めつけにはこうして男性に女性をあてがって、半ばハニートラップに近い方法で信者を集める集団も現れるようになった。

 つまる所この少女は、本当の宗教とは似ても似つかない新興〝集狂〟団体のイメージガールというわけだ。ハッピー人選ミス、おめでとう。今月で君が3人目だよ。

「確かに僕は無神論者ではあるけれど、信仰の自由は大昔に既に許されているだろう」

 数日前、同様の手口に遭った僕をなんとか乗り切らせた金言を並べ立てながら、力無く手を振る。

 まあ、あの時の女性の方がまだ、この少女よりはまともな出会いをしたけれど。

「そちらの神がどちら様かも存じ上げないけれど、その御声がけも賜れない信徒以外の人は、貶しても構わないという教えでもあるのかな」

 どうあれ、この少女がどんな教えに騙されてしまったかなど推して知るべくもなく、だ。

 開口一番から神様をダシに縁談を持ち掛けて来る教えを理解出来そうもないし、騙されてるよと伝えるほど僕はお人好しじゃない。

 というかこの少女は、こんな態度で自分の団体のイメージダウンになると思ったりしないのだろうか。

「いえ、いいえ。許されています。我らが神は総てを赦します。私もそれに習い、あなたの浅慮さも、あなたの短慮さをも許しましょう」

 つくづく、出会い頭に縁談を持ち掛けた側とは思えない発言だ。

「許すってそもそも……」

 少女は目を閉じたまま微笑んでいる。視線を合わせまいとしたのは僕で、トゲのある言い方にムキになって少女の方へ顔を向けたのも僕だ。

 だがいざ視線が合わなかったら合わなかったで、なんというか、負けたような気持ちになるのは何故だろうか。

「いいや、もう。じゃあ僕はこの辺で」

「自己紹介がまだでしたね」

 話の通じない電波少女と全く青に変わらない赤信号を、そもそも先を急いでいる僕が待つ必要もないと歩き出そうとして、後退りする程腕を引っ張られた。

「僕はワタライですどうぞよろしく。では先を急いでいますので、手を離し、離っ、クソ! 力強いな!」

「私は〜……そうですね、う〜ん」

「偽名使う気満々じゃないか!」

 唇をアヒルのように曲げて、首を傾げながらおとぼけ顔で少女は考え込んでいた。僕の腕に巻き付く形でしっかりと掴んだまま。

 日々道なき道をパルクールの如く駆け回っている僕は確かに、一般的な男性としては軽い方の部類に入るかもしれないが、それでも力はそれなりにある方だと自負している。

「私は、天使です」

 だのに、特に鍛えているわけでも無さそうな、ほっそりと華奢な見た目をした少女は、少女は。

「……はぁ?」

 何を言っているんだ。本当に。どこかの物陰に誰か仲間は潜んでいないのか。もう金でも何でも払うから通訳を頼みたい。

「うん。私は天使です。うんうん」

「事前にもっと設定を練っておけよ!」

 ヘタクソすぎる。ファーストコンタクトから自己紹介に至るまでの全てのコミュニケーションが壊滅している。もはや勧誘とかそういうレベルじゃない。

 誰だ。この駄(目)天使をひとりで外に放った奴は。イメージダウンどころの話じゃないぞこんなもん。そしてなんでそんな上手い返しをした、みたいに満足してるんだ。そこに積もった灰の山に頭から突き刺してやろうか。

「設、定……?」

 少女改め天使は、僕の言葉に本気で疑問を抱いているようだ。なんでだ、僕がおかしいのか?

「もういいだろ、君は知らなかっただろうけど僕は急いでるんだ」

 これ以上はさすがに付き合いきれない。今日は一年に一度の大切な日だ。

「あっ、そう……ですか」

「そうですよ、分かったら手を離して」

 自称天使は急に妙にしおらしくなった。伏し目がちで小さく何かを呟き始めて、それでも腕は離さない。

「そう……うん、うん。そうよね。なら」

「おーい、聞いてる? 手を」

「天啓を賜りました」

「離っ、離れないなほんとに! え、今?」

「ええ、今しがた天啓を賜りました。あなたに着いていきます」

「ふう……………………」

 身体中から空気と力が抜けていくのがわかる。

「あからさまに長いため息ですね」

「おかげさまでね」

 ため息は幸せが逃げるというが、なるほど、呼吸法としては悪くないのかもしれない。若干落ち着いてきた。

「それで」

「はい」

「離す気はある?」

「ご冗談を」

「冗談じゃないんだけどなぁ」

 もうこれは仕方ないのかも知れない。十分に驚いた、十分に騒いだ、十分に落ち着いた。そしてその中で、いずれも逃走に失敗した。

 ならばこれはもう、実力行使だろう。あどけなさの残る少女とは言え、電波な発言は責任の所在が曖昧だとは言え、これ以上無理矢理詰め寄られる謂れもない。

「悪いけど、頭を」

「? 頭、ですか。はい」

 歯切れの悪い僕へ、疑問に思いつつも特に迷いもなく、少女はお辞儀をする様に頭を差し出した。小さく合掌。両手は使えないので片手で、心は誠心誠意を込めて。

 再三だが、僕は急いでいる。

 今日は年に一度の大切な日。仕事でどれだけ遅くなっても、何日も帰らない日があっても、この日だけは必ず帰ると決めた日。僕の母さんの、命日。

 何があってもこの日だけは絶対に帰ると誓っていた。重ねて言うなら、今回は母さんの好きだったクッキーも手に入ったんだ。だから。

「ごめんっ!」

「あうっ!」

 合掌に見立てた片手をそのまま振り上げ、肩から肘までを固定する。関節の開きに合わせて重心を少しずつ前へ動かしながら、少女の脳天へと振り下ろした。

 誠心誠意の謝罪と、ほんの少しの苛立ちと、ブレを最小限に抑えて体重を掛けた僕の渾身のチョップ。これを受けて立ち上がってきた者はいない。

「おっ、ぉ……ぉお……」

 少女は天使とは到底思えない様な呻き声を上げ、両手で頭を抱えながらその場に蹲った。

 僕は無言で雲に覆われた空を見上げながら、必殺技後の残心を正しつつ、一笑する。勝った。

「こんなご時世だから、何かに縋りたくなる気持ちもわかるよ」

 冷静に考えると、少女相手にあまりにも大人げない勝利だった気もするけれど、そこら辺はあまり冷静に考えないことにしながら。

「きっと君はどこかで、優しい声に持ち上げられて担ぎ上げられて、ここまで来たんだろうけどさ」

 どこから目線だと思われるだろう。大した違いは無いのかもしれないし、響かなければただの理不尽な暴力と叱咤だ。それでも。

「この灰の街に、神やまして天使だなんて、何処にも居やしないんだよ」

 それでもいい。これは眉唾物の天啓とやらでもなければ説法のような有難いお言葉でもない、僕の経験則からなる歳下の少女へのありふれたお説教なのだから。

「厳しいことを言うけれど、君は数年後には娼婦同然の扱いを受けるようになる。ほぼ間違いなく、だ。僕はそういうものをこれまで幾つも見てきたからね」

 頭を抱えて俯いたまま、少女はぴくりとも動かない。僕の説教を聞いているのか、それとも。

「迷っているなら、」

 二の句を告げる前に思い立つ。

 いやでも、ううむ。それは、どうなんだろう。

 逡巡する。得体の知れない少女ではあるけれど、なんだか可哀想でもある。情が移ったとかではなくて、人道的な見方をしたらだ。

 けれど、彼女にとってはどうだろうか。

 現状から変わったとして、というか。少女の立場も現状もどちらにしろ僕自身の推察でしかない。

 全く見当違いなクリーンな宗教団体である可能性もあるし、全く何もかも関係の無いただの電波少女の線だってある。いや、後者はあって欲しくはないが。

「行きます! 連れていってください!」

 少女はずいと近づいて、満面の笑みでそう言った。

 言葉を途中で切ってそのまま固まっていた僕だが、ここにきての天真爛漫な笑顔と、近づいた勢いのまま再度掴まれた手を見て、ため息混じりに目を伏せた。読んだのだろうか。

「わかったよ。でも、豪勢なおもてなしはできないからね」

「構いません。貴方と共に居られるのであれば」

「そこがまだ納得する答えを貰ってないんだけどなあ」

 まあ、道中に聞けばいいか、と。僕の手を捕まえた手、その震えた手を出来るだけ優しめに掴み返して、僕は少女と並んで歩き出した。

 ここは〝旧都トーキウ・第三地区〟。

 大昔に〝フジ〟と呼ばれる山が大噴火し、その際に生じた大規模活火山群の影響で現在に至るまで年中灰が舞い続けている、当時は〝シシジュク〟と呼ばれた街であった場所。

 後ろを振り返る。信号はいつの間にか、青色に変わっていた。

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