第七話

「優香、今日は先に帰っていてくれる?」


 蝉の鳴き声が気になり始めたある日の放課後、帰り支度をしている私に祐奈ちゃんは言った。

「友達」になってからは常に登下校を共にしていたので、こんなことは初めてだった。


「先にって、何かあったの?それに祐奈ちゃん、今日は塾の日じゃなかったっけ?」

「なんで優香が私の予定を覚えているのよ。ちょっと先生に呼ばれているの。多分、直ぐには終わらないから…って前もこんなやりとりしなかったかしら?」

「したね、五月くらいに。どうしよっかなー、また一人で帰って空き教室に連れ込まれたら」

「…一緒に帰りたいならそう言いなさい。図書室にいてくれれば、用事が終わり次第向かうから」

「はーい!じゃあ本読んで待ってるね!」


 そう返事して、図書室に向かった。下校したところで、行き着く先はあの女が帰ってくる息苦しい家だ。そんなところに帰るくらいなら、祐奈ちゃんとの時間のために図書室で時間を潰している方が遥かに有益だ。


 図書室に入り、適当に開いている場所を見つけて荷物を下ろす。室内には担当の先生と見覚えのない生徒数人しかいないみたいで、とても静かだった。


 適当な小説を手に取り、時間を潰す。その小説は二人の中学生球児を描いたものだった。有名タイトルではあるが、野球に興味がなかったために今まで手を出さずにいた小説だ。読み始めてみると、なかなかに面白い。


 ――中学生、かぁ


 小説を読みながら、いずれ訪れる中学校生活に思いを馳せる。学区内にある中学校は校舎こそ古いものの、部活動が活発なことで有名な中学校だった。小説の彼らのように運動に打ち込んでみるのも面白いのかもしれない。もしくは、文芸部に入って今と同じように本を読むのも魅力的に思える。


 幸いなことに私の家と祐奈ちゃんの家は同じ学区にあり、同じ中学校に進学することになる。せっかく同じ学校に通うのだから、部活動も祐奈ちゃんと同じものにしたい。


 今日の帰りにでも、どんな部活動に入りたいか一度聞いてみよう。もしかしたら、「中学校」に関する祐奈ちゃんの悩みにも踏み込めるかもしれない。


 そんなことを考えながら一時間ほど小説を読んでいると、祐奈ちゃんが迎えにきた。


「おまたせ。待たせてごめんなさい」

「ううん、私が待ってるって言ったんだし大丈夫だよ!」


 そう言いながら帰路に就く。二人並んで、今日あったことを話した。


 体育の授業で祐奈ちゃんが大活躍した話、給食が不味かった話、さっきまで読んでいた本の話。

 そこまで話したところで、さっきまで考えていたことを口にする。


「そういえば祐奈ちゃんって、中学校に入ったら部活はどうするの?」

「…あまり考えてなかったわ。どうしてそんなことが気になったの?」

「だって、せっかく同じ中学校に入るんだよ。できれば部活も一緒がいいなって――」


 そこまで話して気がつく。祐奈ちゃんの瞳が動揺に揺れていることに。

 その理由が祐奈ちゃんの悩みにあることは明らかだった。


「…ねえ、祐奈ちゃん。なにをそんなに悩んでいるの?」

「…私の個人的なことだから、優香に迷惑はかけないわ」


 そう言いながらも、瞳はまだ泳いでいた。祐奈ちゃんが話してくれるまで待ちたかったが、我慢の限界だ。祐奈ちゃんが悩んでいる姿に、私が耐えられなくなってしまった。


「祐奈ちゃん。前にも言ったけど、私にできることがあればなんでもする。だからお願い、何を悩んでいるのか私に教えて」

「…でも」

「お願い。友達が悩んでいるのに力になれないなんて、耐えられない。…それとも、私なんかじゃ力にもなれない…?」

「…」


 たった一人の「友達」であり、私に手を差し伸べてくれた恩人の力になることさえできない。そんな自分の無力さが恨めしかった。悩んでいるのは祐奈ちゃんのはずなのに、なぜか私が泣きそうになってしまっている。


 それでも、私の思いが一欠片だけでも伝わるように祐奈ちゃんを見つめ続ける。

 どれほどの時間が経ったか分からないが、決して短くない時間そうしているうちに


「…分かったわ、正直に話す。優香に話さないといけないことと、お願いがあるの…」

「っ、うん!なんでも言って!祐奈ちゃんの為なら、私ができる事なんでもするから!」


 ようやく、祐奈ちゃんが悩みを打ち明けてくれる気になった。しかも、祐奈ちゃんは私にお願いがあると言った。


 泣いている暇なんてない。「友達」に頼られているのだ。

 絶対に、絶対に力にならなくては。


 そう意気込んでいると――


「…優香、時間があれば、私の家に上がっていく?話すのに少し時間がかかると思うから…」


 ――全く別の方向から、緊急事態がやってきた。



 ✳︎ ✳︎ ✳︎



 友達の家に遊びに行く。

 小学生にとっては極々日常にありふれた出来事だ。別に特別なことではないだろう。


 しかし私にとってはそうではない。少なくともこちらに引っ越して来てから三年と少しの間、放課後に遊ぶ友達なんていなかった。

 しかも、訪ねるのはただの友達の家ではない。たった一人の、特別な「友達」である祐奈ちゃんの家なのだ。


 もちろん、祐奈ちゃんの家に遊びに行きたいとは常々思っていた。

 どんな格好で行けばいいのか、手土産には何を持っていけばいいのか、祐奈ちゃんのご両親への挨拶はどうするのか、ずっと考え続けていた。


 しかしそれはもっと仲良くなってから、私が祐奈ちゃんのことをもっと知って「友達」であると胸を張って言えるようになってからだと思っていた。

 こんな急にその機会がやってくるとは思っていなかった。


 しかも今回は、遊びに行くのではなく真剣な話をするために家を訪ねるのだ。

 想定外に次ぐ想定外に、私は軽くパニックに陥っていた。


 それでも時間は待ってくれない。あれこれ考えている内にもう祐奈ちゃんの家についてしまった。


「ただいま。…どうしたの?入らないの?」

「いや、私がこんな立派なお家に入っていいのかなって。菓子折りも持って来てないし、こんな格好だし…」

「遠慮も気遣いもいらないわよ、そもそも私が誘ったのだし。というよりも、友達の家に来るくらいでそんなに気合い入れる必要ないじゃない」


 祐奈ちゃんがそう言うことは分かっていたが、素直に頷くことはできない。

 私にとって「友達」の家を訪ねることは一大イベントなのだ。


 しかし今日は祐奈ちゃんの悩みを聞きに来たのだ。うだうだしている時間はない。

 

 覚悟を決めて敷居を跨ぐ。


 ご両親への挨拶は重要だ、努めて明るく、元気に聞こえるように――


「お邪魔します!祐奈さんの友人の佐藤優香です!祐奈さんにはいつも――」

「あ、母さんも父さんもまだ帰って来ていないと思うわ。いつも遅いの」

「…そう。お邪魔しまーす…」


 ――挨拶をして出鼻をくじかれた。すごく恥ずかしい。

 というか祐奈ちゃんがちょっと笑っている。顔から火が出そう。


「だからそんなに気合い入れる必要ないって言ったのに」

「だって、祐奈ちゃんの家に来るのなんて初めてだし…」

「初めてでもそうじゃなくても、そんな緊張されるとこっちが困るわ。さ、上がって。」


 そう言って階段を登っていった祐奈ちゃんを急いで追いかける。祐奈ちゃんのお家が大きいことは外から見て分かっていたが、内装もシンプルながらどこか高級感を感じる様相だ。


 自分の家との違いに慄きながら歩いていると、祐奈ちゃんが扉に手をかけた。


「ここが私の部屋よ。適当に座って」

「すごく広い…それにおしゃれ…」

「大半はお母さんが買ったものだから私のセンスじゃないわ。飲み物持ってくるからくつろいでいてちょうだい」


 そういって祐奈ちゃんが出て行ったので、部屋の観察を続ける。

 本棚に所狭しと並べられた本。海外のお土産と思われるおしゃれな置物。CDラックの上に置かれた音楽プレイヤー。机の上に整理されている参考書。

 小学生の部屋にしては、少し大人びた部屋のようにも感じるが祐奈ちゃんのイメージにあったとても綺麗なお部屋だ。


 初めて来る友達の部屋にそわそわしながらも、ここには悩みを聞きに来ているんだと浮かれ気分の自分に喝を入れて待っていると祐奈ちゃんがトレイを持って戻って来た。


「はい、紅茶とお菓子。好きに食べて」

「ありがとう。でも申し訳ないよ、私何も持ってきてないのに…」

「いいのよ。元々私の話を聞いてもらうために来てもらったのだし」


 そう言いながら、祐奈ちゃんは自分が持って来たクッキーに手をつける。瞳が少し揺れている。どう話すか、まだ迷っているのだろうか。

 少しでも彼女が話しやすい様に、意識して堂々と落ち着いた態度をとる。


「祐奈ちゃん、大丈夫だよ。どんな悩みでも、力になってみせるから」

「…うん、ありがとう。優香の気持ちはよく分かっているつもり。でも無理して力になろうとしなくてもいいのよ?」

「ううん、全然分かってない、無理なんてしてない。祐奈ちゃんのためなら、本当になんでもするつもり。祐奈ちゃんが苦しんでいるのを見ているだけの方が、私にとっても辛いの」


 祐奈ちゃんには、いつも笑っていてほしい。穏やかな瞳のままでいてほしい。

 祐奈ちゃんの瞳に悲しみや苦悶の色が差すことが辛くて仕方がない。

「友達」のためなら、私はなんだって出来る。出来なくちゃいけない。


 そんな思いを込めて、正面から祐奈ちゃんを見据える。


 そうしている間に、また二人の間に沈黙が降りた。ちょっとだけ気まずくなって、少しだけ茶化す様に続ける。


「というか、そもそも悩みの内容も知らないのに無理するもなにも無いでしょ。案外、話して見たら楽になるとか、私がいいアイデア思いついちゃうとかあるかもよ?」

「…そう、よね。どうせ隠したままではいられないのだから、早く話すべきなのよね」


 微妙に噛み合わない返事だと思っていると、祐奈ちゃんは机から机から何やら冊子を持って来た。立派な建物が表紙に書かれている。


「あのね、優香。私、中学校は隣の市の中学校を受験するの」


 ――だから、中学校は優香と別の学校になるの

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