第六話

 私とお父さんはあの日、あの女によって引き裂かれた。

 あの日から、一度も顔を合わせていない。


 あの女とお父さんが離婚したと知ったのは、こちらに引っ越してきてから少し経った後だ。その時は、お父さんは私を捨てたのだとひどく恨んだものだ。


 しかしそれは違っていたということに気がついた。忘れもしない、こちらに越してきてから初めての誕生日のことだ。


 離婚した後、あの女はどんどん私から興味を失っていった。

 引っ越してくる前は自分のモノが一つでもお父さんに取られることが嫌だったのだろうか、激しくお父さんと争っていたあの女は、こちらに来てから私への関心を一切失った。


 あまり雑に扱うと世間体や関係を持っている男からのウケが悪いからか、もしくはもはや当たり散らすほどの価値も私に見出していなかったのか、理由はわからないが親としてのごく最低限の仕事はした。

 衣食住の提供はした。学校で必要なものは買った。学校行事も家庭訪問だけは、ボロが出ないように無難に対応した。しかし、それ以外のことは一切と言っていいほどなにもしなかった。


 そんな親が娘の誕生日を祝うはずもなく、また私もあの女に祝って欲しいなどとは一切思わなかった。だから私の誕生日は誰からも祝われない、ただの平日になるはずだった。


 そんな晩夏の日に、遠方に住む祖父母から荷物が届いた。祖父母と母親は折り合いが悪く、私もほとんどあったことがなかった為とても珍しいことだった。私宛だった為内容も確認せずに渡されたそれの中身は、お父さんからのプレゼント―図書カードと可愛らしいペン―と手紙だった。



 手紙には、義父母にお願いしてこの荷物とプレゼントを送ってもらったこと、あの日の出来事に対する謝罪、あの女に私を奪われてしまったという後悔、私の声を聞いたり姿を見たらどうなってしまうのかがわからないという恐怖心が赤裸々に綴られていた。

 そして最後に、もしもの時は連絡してくれと、住所と電話番号が添えられていた。


 読み終えて、私はようやく気がついた。お父さんは、私以上に傷ついていたことに。お父さんが、私を恐れていることに。お父さんが、それでも私を愛してくれていると言うことに。


 私は部屋で声を押し殺して泣いた。声をあげたら、あの女に気づかれてしまうから。

 お父さんからもらった優しさへの嬉しさと、その優しい居場所はもう自分の近くにはないのだというどうしようもない喪失感に。


 その後、返事の手紙を書いた。プレゼントでもらった図書カードを使って道具を揃え、手紙を書いていること。自分はあの日、お父さんにされたことを気にしていないということ。プレゼントがもらえて嬉しいということ。いつか遠い未来に、会うことができたら嬉しいということ。この手紙に返信はいらないということ。


 郵便の出し方なんて当時は知らなかったが、必死に調べて、家から切手を持ち出してポストに投函した。抱えている思いが一片だけでも、お父さんに届けばいいと思って。


 その後、毎年晩夏の誕生日と、クリスマスにだけお父さんからプレゼントと図書カード、そして手紙が送られてくるようになった。手紙のやり取りは今も細々と続いている。


 手紙はお父さんと私が繋がれる唯一の手段だったが、続けているうちに段々と苦しくなってきた。お父さんの書く文章から、溢れ出る愛と一緒に苦しみと罪悪感も感じられたから。私の生活は、手紙に書く内容が無い灰色のものだったから。続ければ続けるほど、お父さんとの距離感を実感してしまうから。


 そんな状態が、去年のクリスマスまで続いていた。

 しかし――――


✳︎ ✳︎ ✳︎


「―――っていうことがあって、八月の誕生日とクリスマスにだけは手紙とプレゼントをくれてね。私もお返事を出しているの」

「そう、なの…」


 櫻井さんに、私とお父さんの今の関係を大まかに伝えた。一緒に暮らしていないお父さんがいること、事情があって直接は会えないこと、毎年二回プレゼントと手紙をくれること。


 流石に離婚したことやその原因、手紙の内容までは話せていないが、何かを察したのか櫻井さんの瞳はどこか気遣わしげだった。


「あなたと、あなたのお父様の関係はわかったわ。でも、感謝されることなんて…」

「それがね、ちょっと前に初めて自分からお父さんに手紙を出したの。私のことを色々知っても、友達でいてくれる人に初めて出会えたって」

「それって、私の…」

「もちろん、櫻井さんのことだよ。便箋がいっぱいになるくらい、いっぱい書いてお父さんに出したの。そうしたらね――」

「お父さん、今まで見たことないくらいに喜んでたの。もちろん顔は見てないし、声も聞いてないけど、文字を見ただけで伝わってくるくらい喜んでたの。それこそ、読んでいる私がちょっと恥ずかしくなっちゃうくらい」


 櫻井さんと「友達」になった後、お父さんに手紙を書いた。なぜだか、彼女のことをお父さんに知って欲しいと思ったから。


 返信で届いた手紙は、今までとは全く異なるものだった。文字を見るだけで、喜びの感情で溢れていることが伝わってきた。便箋には所々涙の跡があって、その思いが伝わってくるような気がした。


 これまでのどこか鬱屈としたやりとりとは違っていた。

 この手紙を書いている時のお父さんはきっと、遥か記憶の彼方にいる「一番大好きなお父さん」だったに違いない。そう思えるほどに、晴れ晴れとした気持ちが伝わってくる手紙だった。


「だから、お礼が言いたくて。こんなに素直にお父さんに気持ちを伝えられたのも、お父さんが喜んでくれたのも、櫻井さんのおかげだから」

「…本当に、私は何もしていないのだけれど――」


 櫻井さんは前にも見せてくれた、見惚れるような微笑みで、でも今回はちょっとだけ困ったように告げる。


「――どういたしまして、でいいのかしら」

「うん!本当にありがとう!」


 どうしても伝えたかったのだ。櫻井さんのおかげで、どれだけ私が救われているかを。その一端だけでも。


「この際だから言うけど、お礼を言いたいのは私もよ」

「え、なんで?私、いつも櫻井さんに迷惑かけてばっかりで何も…」

「いいえ、あなたはたくさんのものを私にくれたの」


 瞳に慈愛を映しながら、櫻井さんは語る


「私ね、低学年の頃からずっと周りから避けられていたの。何考えているのかわからない、気味が悪い、怖いって。」

「でも、櫻井さんはそんなの気にしてないんじゃ…」

「今はもう気にしてないけど、小学校一二年生の子供に気にするなって言う方が無茶よ。それにね、気にしなくなったのも佐藤さんのおかげなのよ」

「私…?」


 知らなかった。私は出会ったあの頃から、櫻井さんは一人でも平気な人間だと思っていた。しかし実際は、「気にしていない」ように見えていただけと言う。

 しかも、それを気にしなくなったのは私のおかげだって


「私ね、一人でいるのがずっと寂しかったの。学校ではみんなから避けられて、お父さんはいつも仕事で家にいないし、お母さんは家にいても忙しそうだし。ずっと、このままなのかなって、とても怖かったの」

「一年生の時は、これでも結構友達を作ろうと頑張っていたのよ。鏡の前で笑う練習もしたし、自分から話しかけに行ったこともあったわ。けれど、どんなに頑張っても相手を怖がらせるだけで意味がなかった」

「それで、もう友達を作ることを半分くらい諦めてた二年生のある日、あなたが転校してきたの。それで、あの時のあなたったら…」


 彼女は、初めて見せる顔で、とても可笑しそうにコロコロと笑う。


「私よりも仏頂面で、私より冷たい口調で、私より避けられているのだもの!転校初日の、学校に馴染むために一番大切な日に!」

「あ、あの頃の私はいろいろあってちょっとおかしかっただけだから…」

「ええ、あなたの本来の姿は今のあなただってことはもちろん分かっているわ。でも、あの時はそんなこと知らなかった」


 転校初日のことなどほとんど覚えていないので、強く反論することができない。当時は周囲の全てがどうでもよくて、とにかく気に食わなかった。


「そんなあなたを見て、自分を曲げないで、無理に笑わないで、周りにどんなことを言われても一人で強く生きることにちょっとだけ憧れたの。今思えば、笑っちゃうぐらいすごい勘違いだけど」

「もうやめてよ…本当に恥ずかしいから…」

「それだけじゃないの。二年生のときから体育だったり、登下校だったり、学校の行事だって、あなたとずっと一緒にいたじゃない。あれのおかげで私は寂しくなくなったの」

「それだって、全部本当に偶然だし…」

「そんなことは知っているわ。それでも、一人だけど孤独じゃない距離感っていうのは、私にとって居心地が良かったの」

「―あ」


 いつの日にか、自分も考えていたようなことを櫻井さんは告げた。


「だからね、そんな距離感のあなたと一緒にいて、孤独じゃなくなって、そのうち色々話すような友達になってすごく嬉しかったのよ。まあ、あなたは最近まで私に興味がなかったみたいだけど」

「さ、櫻井さん!なんで今日はそんなに意地悪なの!?」

「友達だからよ。それに少しは茶化さないとはずかしいじゃない…」


 笑って、少しだけ照れて、表情豊かな櫻井さんは真面目な顔に戻って言葉を続ける


「…あの日から、あなたが変わろうとしていることは当然気がついているわ。うぬぼれでなければ、そのきっかけが私であることにも。変わることがあなたにとっていいことなら、もちろんそれでいいと思う。でも、これだけは言わせて」


「私は、三年前あなたが転校してきた日からあなたに救われ続けているの。いつも側にいてくれてありがとう」


 ――――感無量だった。彼女にここまで想われていることが、彼女の支えになれていたことが嬉しくてたまらない。体の芯から熱くなってくる。喜びで泣いてしまいそうだ。


 だが――


「…やっぱり私が特別なにかしたわけじゃないし、どういたしまして、っていうのも違和感があるなぁ…」

「そう?それならさっきの私の気持ちが少しはわかったかしら」

「櫻井さんやっぱり今日はなんだか意地悪だ…」

「そうかしら?佐藤さんとのおしゃべりが楽しいからかしら」


 そういって澄ました顔でカフェオレを飲む櫻井さん。

 なんだか納得がいかない。自分の気持ちを伝え、感謝も述べた。おまけに櫻井さんの気持ちまで聞くことができた。戦果としては、これ以上無い程だ。なのになんだか悔しい。


 だから、少しだけ仕返しすることにした。


「ところで櫻井さん、私もこの際だから言いたいことがあるんだけど」

「あら?まだなにかあるの?」

「…私、実は『佐藤さん』って呼ばれるのそんなに好きじゃないんだよね」

「えっ…そ、そうなの?」


 さっきまでご機嫌だった櫻井さんの瞳が動揺に揺れる。心がちくっとしたが、嘘は吐いていないのでこのまま続ける。


「櫻井さん、私と母の関係が良くないのはなんとなく察しているでしょ。それでね…」

「そ、そうなの。…今までごめんなさい」

「違うの。謝って欲しいわけじゃなくてね

 ――私のこと、優香って呼んで」


 コーヒーカップに伸びた手を取って、瞳を真正面から見て、願いを伝える。

 櫻井さんは呆然として、そして次第に顔を赤く染めていった。


「ねえ、優香ってよんでよ」

「―え、いや、でも…」

「嫌なの?私のこと名前で呼ぶの」

「嫌じゃ、ない、けど…」

「なら呼んで。…それとも、恥ずかしい?」

「―――――――ッッ!」


 ついにはプルプルと震え始めた。櫻井さんがこういったことを恥ずかしがることを、私は誰よりも知っていた。


 そして、手を握ったまま暫く待っていると


「――ゆ、優香…」

「うん!よく言えました、櫻井さん!」


 真っ赤な顔のまま、櫻井さんがものすごく恨めしそうな顔で見てきている。何が言いたいかは分かっているが、あとほんのちょっとだけ意地悪したい。


「さて、ずいぶん話し込んじゃったね。櫻井さん、そろそろお店は出ようか」

「そ、そうね。…あの、ゆ、優香、私も…」

「ごちそうさまでした、櫻井さん。すごく美味しかった!」

「そ、そう。それは良かったわ。…それより優香、だからね…」

「無料券くれたっていう店員さんには挨拶した方がいいのかな?どう思う櫻井さん?」

「―――――――――ッッ!!」


 多分、私がわざとやっていることはバレてる。現に、櫻井さんはちょっと涙目で睨んできている。

 やりすぎちゃったかなと、心の中でほんのちょっとだけ反省しながら、私より少し遅れてカフェから出てきた「友達」に尋ねる。


「――次はどこに行こうか。祐奈ちゃん!」

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