「信頼」
第四話
梅雨が近づき、天候に優れない日が増えた。今日も空は厚い雲に覆われ、午後からは雨が降り出すかもしれない。湿度は高く、お父さん讓りの茶髪もどこか御機嫌斜めだ。
そんな最悪な天候の中で――
「おはようっ!櫻井さんっ!」
「おはよう佐藤さん。暑い、離れて」
――私の心の中には、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
櫻井さんと「友達」として付き合うようになってからいくつか気がついたことがある。
一つ、櫻井さんは表情に乏しいが、とても感情豊かだということ。表情筋は普段仕事をしないが、目を見れば彼女の感情を読み取れることに最近気がついた。
子犬を見ると僅かにに目元が緩み、くだらない冗談に僅かに眦を上げて怒り、急な雨に瞳を僅かに曇らせて落ち込む。
よく観察しないと分からなかったが、一度わかってしまえば彼女の感情は手に取るようにわかるようになった。
仕事をサボっている表情筋も、友達になった日のように感情が大きく揺れると途端に元気になる。普段の生活では感情が大きく動く出来事はそうそう無いため、表情の変化はあまり見れていない。いつか彼女から色々な表情を引き出してみたいとおもった。
余談だが、「羞恥」の感情のキャパシティだけ極端に低いことだけは「友達」としての短い付き合いのなかでよく分かった。
ちょっと抱きついただけで無表情のまま赤面し、そこからさらに密着するといよいよ動揺が表情に現れる。あの日から今日までの一ヶ月弱で、この表情だけは何度も見た。
最も、スキンシップへの耐性は最近ついてきたようで、今日のように軽くあしらわれることも増えてきた。不服である。
一つ、櫻井さんは一匹狼気質ではあるが、一度懐に入れると情に厚いということ。
普段は誰も寄せ付けない冷たい空気を纏っている櫻井さんだが、私と一緒にいるときはとても心を砕いてくれていることに気がついた。常にさりげなく、私に気づかれないように私を危険から遠ざけてくれる。
いじめのことを聞いてきた日も、今思えばわざわざ私を待っていてくれたのだろうし、その後も、それより前もきっと私の知らないところで櫻井さんは私を助けてくれていたのだろう。
対等な「友達」になるためにも、いつか必ず恩を返したい。
一つ、櫻井さんには何か悩み事があること。
「中学校」や「中学生」という言葉を聞くと、櫻井さんの瞳は動揺に揺れる。
櫻井さんは頭も良いし、塾にも通っているようなので勉強で心配するようなことは何もないと思う。スポーツも並以上になんでもこなすので、部活動にも困ることはないだろう。
正直、悩みの正体には見当がつかない。
一度、思い切って悩み事がないか尋ねて見たが「そのうち話すわ」とだけ言われてはぐらかされてしまった。その言葉に嘘はなさそうだったので、打ち明けてくれた時に必ず力になりたい。
――ここまで櫻井さんのことを散々語ったが、あの日以来、私にも当然変化はあった。
人との接し方が、今までとガラッと変わった。
櫻井さんと「友達」になったことで心に余裕が生まれ、過剰に周りを敵視するのがバカらしくなったのだ。
今までシカトしていた先生たちには一度謝りにいった。最初は何事かと大層驚かれたが、具体的な出来事をぼかしつつ、心に余裕がなかったこと、櫻井さんのおかげで救われたことを説明した。訝しげにしていた先生たちも、櫻井さんの名前を出した途端に納得したような表情になった。今までが酷すぎこともあり、現状は好意的に受け入れられていると思う。
クラスメイトたちとは「噂」のこともあり親しくすることはないが、事務的な会話程度はするようになった。クラスメイトたちはそんな私の態度にどこか気まずそうだったが、私自身「噂」やいじめに関することはもうどうでもよかったので気にしないことにした。
櫻井さんは不満そうだったが、今回の出来事があの女に伝わる方が嫌だったのでいじめのことは問題にしなかった。いじめっ子たちは復讐を恐れるように私や櫻井さんを見てくるが、流石に知ったことではないため無視した。
そして最後に、櫻井さんに対してだ。櫻井さんは私のことを「友達」だと言ってくれたが、五年生になるまで櫻井さんに興味を持たず接してきた私は、自信をもって櫻井さんのことを「友達」と言える程、櫻井さんのことを知らなかった。
だから櫻井さんのことをなんでも知ろうと、一緒にいられる時間は可能な限り行動を共にし、今まで聞いてこなかった色々なことを質問した。
すこし困惑した櫻井さんから「性格変わりすぎじゃない?」と言われたこともあったが、どちらかといえばこっちが素だ。今までが荒んでいただけだ。
時々、櫻井さんに「落ち着きなさい」といわれるが、目は穏やかに笑っているのであまり気にしていない。
私の学校生活は、私の人生は、あの日から初めて心の底から楽しいと思えるものとなった。
どれもこれも、すべて櫻井さんの、私の大切なたった一人の「友達」のおかげだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「櫻井さん!一緒に帰ろ!」
「落ち着きなさい。まだ教科書をしまっているからちょっと待って」
放課後、そう言いながら教科書を片付ける櫻井さんを眺める。終礼はもう済んでおり、他の生徒たちは、まばらに帰宅を始めていた。
そんな時、彼女がしまう教科書の中に私の見覚えのないものがあった。
手にとって適当なページを開くと、やはり学校のものではなかった。
「なにこの教科書、算数?」
「塾で使っている問題集よ。空いた時間にでもやろうと思ったの」
「へぇ、こんなしっかり勉強するんだ。中学校の内容かな?」
「…まあ、そうね」
なにやら歯切れが悪い気がしたが、「中学校」という言葉を使ったからだろうか。パラパラと教科書を眺ながら、少し反省する。
「わかりやすね、この問題集。これなら私でも解けそう」
「…待って。あなた、眺めただけでこれが解けそうってわかるの?」
「うん、別に難しい内容じゃないし。というか櫻井さん、私が勉強できること知ってるでしょ」
「学校の勉強ができることは知っていたけど…」
そう言うと、櫻井さんは少し考えてからファイルから紙を一枚取り出した。
「…ねぇ、解けるっていうのだったら、このプリントを解いてみない?」
「別に私は構わないけど、宿題は自分でやらないと身につかないよ」
「それは復習用のコピーよ。私は問題集を見て解くから、勝負しましょ」
「勝負!?珍しいね!やるやる!」
櫻井さんからこんなことを持ちかけられるのは初めてだ。なんだか「友達」っぽいことができてすごく嬉しい。
「条件はどうする!?速さ?正解数?罰ゲームは!?」
「だから落ち着きなさいって……正解が多い方が勝ちで、一応時間も計る。罰ゲームはとりあえず無しでいい?」
「おっけー!やるからには負けないよ!」
そう言いながら、筆記用具を取り出し近くの席に座る。
教室にはもう私達しか残っていなかった。
「準備はいい?始めるわよ。…よーい、スタート!」
櫻井さんの声に合わせて問題を解き始める。問題は学校ではやらないようなものばかりだったが、解けないような問題ではなかった。
五分たったこところで、櫻井さんが「終わったわ」と声をあげる。その速さに驚いたが、勝負内容は正答率なので最後まで丁寧に解く。30秒ほど遅れて、私も全問解き終わった。
「私も終わったよー」
「…もう?本当に?」
「もうって、櫻井さんの方が先に終わってたじゃん。そんなことより、早く丸つけしよ!」
そう言ってプリントを櫻井さんに渡す。
すると、櫻井さんは問題集とプリント、そして答えを見比べ始めた。
そしてややあって、
「…採点できた。私は全問正解、佐藤さんは一問間違いね」
「え!?本当に?…あ、本当だ。」
どうやら間違いがあったらしい。対して、櫻井さんのノートにはバツが一つもついていなかった。完敗である。ちょっと悔しいが、それ以上に櫻井さんと何かで競い合うのが楽しかった。
「正解数でも、時間でも負けちゃった。罰ゲーム無しでよかったぁ」
「…そうね」
勝利したというのに、櫻井さんの反応は芳しくない。目を見ても、喜んでいるようには見えなかった。
「…もしかして、櫻井さん、楽しくなかった?」
「…え?どうしたの、佐藤さん。急にそんなこと言って」
「だって、勝っても嬉しそうじゃないし…」
「別に、勝って嬉しくないわけじゃないのだけど…」
そういうと櫻井さんの表情が変わった。眉が寄っており、何かに悩んでいるようだ。この表情は初めて見る。さっきのやり取りで、櫻井さんが悩むようなことはあっただろうか。なんでこんなに悩んでいるのか、全く見当もつかない。
しばらくして、いつもどおりの顔に戻ってから櫻井さんは口をひらいた。
「…今の勝負、全く公平じゃないのよ」
「え、どうして?実はもう一回解いたことがあるとか?」
「いえ、この問題自体は初めてといたわ。でも、私はこの問題が解けるように塾で授業を受けてきているのよ。だから解けたの。だけど、佐藤さんは…」
「なんだ、そんなこと気にしなくていいのに。私だって自分で勉強をしてたから解けたんだし」
「…そうなの?」
櫻井さんの目から驚きの感情がみえた。一先ず、悩みから思考をそらすことができたようだ。
「うん。私の家って帰っても何もやることないし、殆どの時間は机に向かってるの。図書館から借りた本を読んだり、学校の勉強をしたり。あと最近は中学校の勉強もちょっとけけしたり…」
言ってから「しまった」と思った。とにかく言葉を続けようとするあまり「中学校」という今の櫻井さんにとって、悩みのタネであろう言葉を使ってしまった。
櫻井さんの反応を見ると、目が一瞬驚きに見開かれてから、再び悩むような表情になってしまった。
櫻井さんの色々な表情を見たいとは思ったが、こんなに悩んでいる姿が見たい訳ではなかった。
どうにかできなかとあれこれ考えていると、櫻井さんは表情を変えないままこちらに視線をやった。
「…中学校の勉強って、具体的に何をやっているの?」
「えっと、数学と国語。あと英語をほんのちょっとだけ…」
「…勉強は一日どれくらいやっているの?あと机に向かう時間は?」
「勉強は最低1時間、長い時で3時間くらい?あとの時間は本を読んでいるけど、ご飯とかお風呂の時以外は大体机の前?」
「…休みの日は何やっているの?」
「休館日とかじゃない限りは、図書館に行って閉まる時間まで篭ってるよ。お休みだったら、自分の部屋で勉強と読書かな」
「…そう」
よくわからない質問をいくつか投げかけられ、とりあえず答えた。嘘はついていないが、その理由までは聞かれないでホッとした。
勉強や読書をする本当の理由は、活字の世界に没頭してあの女がいる現実から逃避するため。
図書館に行く理由も家から逃げ出すため。
今から中学校の勉強に手をつけているのは「全寮制」という夢のようなシステムを持つ高校に、学力のせいで行けないという最悪の事態を避けるため。
どれもとにかく後ろ向きな理由だったため、もし聞かれていたら返答に困っていただろう。
しばらく待っていると、眉を潜めていた櫻井さんが「今考えても仕方ないわね」とつぶやき、元の表情に戻った。そして手早く教科書と筆記用具を片付けた。
「付き合わせてしまってごめんなさい。とりあえず帰りましょう」
「あ、うん…」
あまりの切り替えの早さに驚きながらも、教室から出る櫻井さんについて行く。
横に並び瞳を覗くと、まだ少しだけ悩みの色が残っていた。
だから、一言だけ、
「ねえ、櫻井さん」
「なに、そんなあらたまった顔して」
「話せるようになったら、悩み事、話してね。私にできることがあればなんでもするから。」
「……近いうちに話す、かも………」
今まで聞いたことも無いような、この上なく歯切れの悪い返事。しかし「そのうち話す」が「近いうちに話す」になっただけでも、今日のやりとりには意味があったのかもしれない。
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