第二話
あの女の娘だという理由でいじめられることに、私は「それはそうだろうなぁ」と他人事のように思った。
結局、こちらに引っ越してきた後もあの女の男遊びの悪癖が止むことはなかった。水商売でお金を稼ぎながら、プライベートでは毎回違う男を取っ替え引っ替え自宅に連れ込む。そんな生活をあの女は送っていた。
そして、そんな様子が保護者を通じて生徒たちの間にも広がったのだろう。
低学年の頃ならともかく、五年生ともなると耳年増な少女たちには、あの女の悍ましさが理解できるのだろう。私自身、性に関する知識を身につけて、あの女が仕出かした所業を察するとともに、より一層の嫌悪感を抱いた。私とお父さんを引き離したあの女が、私の居場所を壊したあの女が許せなかった。特に、あの女が男性を見る情欲に溢れた眼には、吐き気さえ覚えた。
――だからこそ、私は私をいじめる生徒たちに共感できてしまう。あんな親から生まれた私は、さぞ気持ち悪いのだろう。あの女の面影を残す私の顔は、さぞ恐ろしいのだろう。
こんな気持ちだから、物を隠されることや仕事を押し付けられることに面倒臭さを感じることはあっても、怒りがあまり湧いてこないのだろう。苛立ちを覚えても、母に対する悪口をきいた途端、それが霧散してしまう。私自身、あの女に養われている立場でさえなければ、声を大にして同調したのだろうから。
あの女の悪口だけ言っててくれればむしろ学校生活が楽しくなるかもしれないのになぁ、なんてロクでもないことを考えながら下駄箱から靴を取り出し外に出ると見慣れた、しかしここにいるのはおかしい人物が現れた。
「櫻井さん、なんでここにいるの?」
彼女――櫻井祐奈はこの学校において、私――佐藤優香が「仲が悪くない」といえる唯一の人物だ。よく座席が近くなったり、余り物同士で二人組を組んだり、通学路が被っているから一緒に登下校するはめになったりと、何かと縁がある人物だ。
しかし、今日に限っては一緒に下校することになるはずがなかったのだ。私も櫻井さんもホームルームが終わったらすぐに帰宅する。だから、いつも示し合わせて一緒に帰っているわけではなく、お互いが最速で帰宅しようとした場合、結果的に一緒に下校することになっているだけなのだ。
私と櫻井さんは互いに何か用事があっても、もう一方を待つよう関係ではないし、ましてや櫻井さんはたとえ友人であったとしても速攻で帰宅するタイプだと思う。
押し付けられた仕事をこなしてから帰宅しようとしている今の時間帯は、日直でもない櫻井さんはもう自宅に着いていなければおかしい時間だ。
「別に、図書室に行って借りてた本を返してきただけよ」
「へー、珍しいね」
「佐藤さん、聞いといて全く興味ないでしょ…」
こんな会話で嘘をつく必要はどこにもない。櫻井さんが図書室に行くところなんて見たことはないが、きっとその通りなのだろう。もし嘘だとしても、私には関係のない話だ。
その後はお互い無言で、時々ふと思い出したように会話をしながら帰路につく。肌の表面を羽毛で擽ぐるようなこの距離感が、今の私には心地が良かった。あの女の気配がする家よりも、面倒を押し付けられる学校よりも、生温いこの空間が落ち着く。
「ねえ、佐藤さん」
「っ、なに?」
いつも一言だけ挨拶をして別れる場所、私の通学路の途中にある櫻井さんの家の前に到着したときに呼び止められる。数えきれないほど登下校を共にしてきたがこんな体験は初めてで、つい驚いてしまった。
振り返ると、櫻井さんはいつもどおり顔――感情が読み取りづらい表情で問いを投げかけてきた。
「あなた、今学校でいじめられてるの?」
「…もう少し遠回しに聞きなよ」
「そんなの時間の無駄じゃない」
で、どうなの。と続きを促される。その表情は面白がっているようにも、同情しているようにも見えない。いつも通りの、何を考えているのか分からない表情。
先程までの生温い空気が霧散し、急に居心地の悪さを感じた。なぜこんなことを聞いてきたのか、何が知りたいのか、全く見えてこない。
少し考えて、一緒にいることが多いし、どうせ言わなくてもそのうち気づかれるだろうと思い質問には答えることにした。
「うん、今年に入ってから物を隠されたり色々ね」
「…大丈夫なの、それ」
「ちょっと面倒くさいけど、そんなに辛いわけじゃないし放っておいていいかなって」
「……」
櫻井さんは口元に手を当て、何かを考えている様子だった。表情からは読み取れなかったが、口調からしてどうやら心配してくれていたらしい。
なんでこんなこと聞いてくるんだろうという苛立ちと、心配してくれたことに対するほんのちょっとの嬉しさからよくわからない気持ちになった。
ひとまず、この会話を打ち切ろうと言葉を重ねる。
「これまでの私の態度にも原因があるし、いじめが始まったきっかけにも心当たりはあるから、櫻井さんは気にしなくていいよ」
「きっかけ?」
「知らないの?最近広まっている私に関する噂」
どこまで広まっているのかは知らないが、少なくともクラスの大半は噂を知っている様子だった。当然、彼女もこの噂を知っていて、だからこんな突拍子もない話題を降ってきたのだと勝手に思っていた。
「あんなにクラス中で話題になっているのに聞いたことないの?」
「知らないわ。噂話になんて興味はないし、そもそも私にそんな話をする仲の友達はいないわ」
そう言うと再び考え込むように黙ってしまった。なんとなく櫻井さんが次の言葉を発するのを待っていた。しかしどれだけ待っていても、櫻井さんが動く様子はない。なんだか居心地も悪いし、一声かけて帰ろうかなと考え始めたころに、彼女は顔を上げた。
「分かったわ、教えてくれてありがとう。それじゃあ」
「あ、うん。また明日……」
言うや否や、彼女は体を翻し自宅の中に入って行った。
少しの間呆然としていたが、突っ立ったままでいるわけにもいかないので再び帰路につくことにした。
櫻井さんは何がしたかったのか、何がありがとうなのか、何が知りたかったのか、結局一つもわからなかった。
思考を巡らせていると、ふと櫻井さんが言っていたことを思い出した。
――噂話になんて興味はないし、そもそも私にそんな話をする仲の友達はいないわ
櫻井さんは、噂を、あの女の知らないと言った。
それなのに私がいじめられているかもしれないと思い、話をふってきた。
案外、私が思っているよりも櫻井さんは私のことを気に留めておいてくれているのかもしれない。
もしかしたら、今日図書室に行っていたというのも、私から話を聞くための方便だったのかもしれない。
全て、私の勝手の想像かもしれないが、そう考えるとなんだか少しむずかゆく感じた。そして、櫻井さんから干渉されることに嬉しさを覚えている自分がいることに気がついた。
今度からもう少し櫻井さんに興味をもって接してみようかな。
そんな暖かな気持ちが、本当に久しぶりに、転校してきてから初めて湧いてきた。
そして、それと同時にどうしようもない恐怖が私を襲った。
――櫻井さんも、あの女のことを知ったら私を軽蔑するのだろうか
―――あの温くて居心地の良い空間も、また無くなってしまうのだろうか。
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