『ずっと』

「貞節」

第一話

 ずっと家族と一緒にいたい、そんな願いさえ叶わなかった。

 幸せな家庭だったと思う。優しくかっこいい、一番大好きなお父さんと、綺麗で明るい、大好きなお母さん。常に笑いの絶えない私の居場所だった。この日常が当たり前のように永遠に続くと思っていた。


 あの日、あの女が裏切るまでは。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 私と彼女の出会いは別に運命的なものではなかった。小学二年生の時、転校した先の小学校で後ろの席になった、ただそれだけ。

 第一印象なんて覚えていない。どうでもいい記憶として切り捨てたことを、親友になってから死ぬほど後悔した。


 当時の私はひどく荒れていた。興味をもって話しかけてくれる同級生を睨みつけ、親切に声をかけてくれた担任の先生をシカトした。クラスから孤立するのは当然のことだし、それでよかった。


 一方彼女は、私と違い周囲から嫌われてこそいなかったが、クラスでは浮いた存在だった。最も、彼女は一匹狼気質で、そんなことちっとも気にしていない様子だったが。

 

 そんな一人ぼっちの私達は、なぜか一緒にいる時間がとても長かった。

 教室ではたまたま席が近かっただけで、

 ペアを作る時に余り物二人だっただけで、

 ついでに通学路が偶々同じだったけで。

 気づけば、一日の大半を彼女と行動していた。会話は最小限でその内容も事務的なものばかりだった。その関係性を言葉にするのなら、一緒にいるだけの他人といったところだろう。

 端から見ると、なんとも気まずい光景だったに違いない。けれど当時の私にとってはその場所は、一人でいるのに孤独じゃない生ぬるい距離感は、不思議と居心地の良いものだった。


 そんな私と彼女の関係は、随分長い間続いた。席替えで座席が離れることはあったが、クラスが分かれることは無かった。席が離れても、お互いに別の相手もいないため二人組は彼女と組んだ。登下校の時間も彼女と一緒だった。登校時間や下校のタイミングをずらすことも考えたが、彼女を理由に自分が時間を変えることがなんだか癪に思えて止めた。

 流石にこれだけ一緒にいると、いつの間にか雑談をする程度の間柄にはなっていた。


 五年生になった途端、私は遂にクラスでいじめを受けた。物を隠されたり、仕事を押し付けられたり、これ見よがしに悪口を言われるようになった。辛くなかった、といえば嘘になるけど抵抗する意思はなかった。どうせ元々孤立していたのだから大して状況は変わっていないし、何よりクラスメイトがいじめを行う理由が私にとって納得のいくものだったからだ。


 なんてことはない、あの女のことがクラスに広まったのだ。



 ✳︎ ✳︎ ✳︎



 明るく綺麗だと思っていたあの女が、どうしようもないほどに邪悪で醜い存在だと知ったのは四年前のことだった。別に込み入った話があるわけでもない。


 あの女が不倫をしたのだ。あれだけ立派なお父さんがいるにも関わらず、年下の男と寝たらしい。


 不貞がバレたとき、あの女はお父さんに泣きついた。寂しかった、もっと構って欲しかったと涙ながらに縋り付いた。お父さんは、自分にも非があったと己を責め、身勝手極まりないあの女を許した。不倫や浮気なんて言葉を知らなかった当時の私は、両親が喧嘩して仲直りをした程度にしか考えていなかった。幸せな私の居場所は、喧嘩程度ではなくならないと信じきっていた。


 けれど、一度ヒビの入ったこの場所が元に戻ることはなかった。


 お父さんがあの女を許した後も、気不味い空気が消えることはなかった。当然の話だ。これまでお父さんがあの女に向けていた透き通った信頼に、黒いインクを落とし濁らせたのはあの女自身だ。仲直りしたはずなのに、幸せの空間消えてしまったことに、私はひどく困惑した。


 そんなお父さんの疑いの眼差しは、私の狼狽はきっとあの女に伝わっていた。伝わっていて、それでもなお、あの女は逃げだしたのだ。


 お母さんは、あの女は、不貞を繰り返した。


 今度の不倫の相手は私も知っていた。お父さんの古くからの友人だ。時々、お父さんと食事をするために我が家に訪ねてきていた人だ。三人の間にどのような関係があり、どのような経緯で不倫に至ったのか私は知らない。

 しかし、純然たる事実として、あの女はお父さんの優しさを最悪の形で裏切った。


 こうして私の居場所は、地獄へと変わった。


 あの日から、毎日お父さんとあの女の罵り合いが聞こえた。ひどいときには何かが割れる音や、壁にものを叩きつけるような音まで聞こえた。

 あの女は、あの日を境に性格が一変したように思える。お父さんを前にわめき散らし、物を投げ、平然と暴力を振るう。元々それが本性だったのか、気が狂ってしまったのか、もはや私に知る術はない。ただ、私の中でお母さんが死に、あの女が私にとっての邪悪の象徴となったのは、間違いなくこの時だった。それでいて、私に向ける表情が以前となんら変わらなかったことが、何よりも私に恐怖を植え付けた。


 お父さんも、あの日を境に変わってしまった。友と妻に裏切られたことは、まだ修復が終わっていない心を粉々に砕いたのだろう。

 いつも柔らかな笑みを浮かべていた顔が、憤怒の表情に染まるところを初めて見た。

 私の大好きな穏やかな瞳は、哀しみと憎しみに染まっていた。

 私が愛していたお父さんはもうどこにもいない、そう思った。


 だけど、それでもお父さんはあの女に対して一度も暴力を振るわなかった。どんなに怒鳴り上げても、決して手を出さなかった。どんなに傷つけられても、言葉だけで戦い続けた。

 その姿に、以前の、私が一番大好きなお父さんがまだ残っているといる希望を見出していた。それに縋らなければ、私はこの地獄を耐え抜くことはできなかった。


 そんな生活が長く続くはずもなく、終わりの日はやってきた。


 いつも通り、夜中までお父さんとあの女は言い争いをしていた。時々「優香」と私の名前が聞こえるが、話している内容はさっぱり分からなかった。今思えば、きっと親権についての争いだったのだろうが、当時の私は知る由もなかった。


 怒声が恐ろしくて、毛布にうずくまった。何かが割れる甲高い音が聞こえた。もう何も聞きたくなくて耳を塞いだ。そんな僅かな抵抗を嘲笑うかのよう鈍い音が響くと同時に、壁が揺れ振動が伝わってきた。その揺れ幅は今まで最も大きく、床を伝って布団の上に寝ている私にまで聞こえた。音と振動に驚かされ、布団から飛び起きると、言い争いは終わっていた。怒鳴り声がなくなったことに安心して再び横になろうとした時、ふと先ほど「優香」と私の名前を呼ばれていたことが頭によぎった。そして気になり始めると、あの鈍い音と振動の正体も気がかりになっていた。


 もう、怒鳴り声も何なにかが割れる音もしない。人の気配もない。

 だから、少しぐらい様子を見てもいいだろう。何もなければ安心して眠ることができる。

 そう思い私はそっと部屋を出た。

 明かりはすでに消えていて、真っ暗で何も見えない。手探りで扉のすぐ近くにあるスイッチを探し、点灯する。


 そうした私の目に飛び込んできたのは、赤黒い斑点のついた白いシャツを着たお父さんだった。


「――お父さんっ!?お父さんっ!!」


 お父さんは、私の部屋の扉の横でぐったりとしていた。


「ねえ、起きてっ!!起きてよ!!お父さん!!!」


 体を強く揺さぶっても、反応はなかった。


「どうしたの!?起きてよお父さん!!ねえってば!!」

「――――――っ」


 しかし、声をかけ続けるとゆっくりと瞼が開いた。


「お父さん!よかっ――」


 言葉は続かなかった。何が起こったのか分からなかった。

 お父さんが目を覚まし、瞳を揺らしたと思った次の瞬間、私は床に押さえつけられていた。

 そして、私が大好きなお父さんの大きくて暖かい手が、強く握られ振り上げられていた。

 現実を、受け止めることができなかった。


「おとう…さん……」

「――――――っ、ゆ、優香?」


 呆然と呟いた声が聞こえたのか、お父さんの焦点が定まった。そして、振り下ろされた拳は私の顔に当たる寸前にとまっていた。

 お父さんがいつもの様子に戻って安心した。とっても怖かったけど、きっとお父さんも怖い夢を見ていたのだろう、なんて先ほどまでの光景から逃れるようになんて当時の私は考えていた。


 お父さんも、少しの間呆然としていた。しかし、暫くすると再び様子がおかしくなった。

 私に覆いかぶさっていた体は、小刻みに震え出し、顔は青色を通り越して、土色に染まっていた。瞳は目を覚ました直後よりも大きく震え、真っ白い歯はガタガタと音を鳴らしている。


 ――またお父さんの様子がおかしくなった!早くなんとかしないと!


 幼心にそう考えた次の瞬間、抱きしめられていた。

 何かから私を守ろうとするような、強い力で。

 何かが壊れることを恐れるような、優しい手つきで。


「お父さん…?」

「―――――――――――――――――――――――――――――ッッッッ!!!」


 お父さんは、声にならない叫びをあげた。そこには、様々な感情が込められていたように思える。


 哀切、後悔、絶望、怨恨、憎悪


 もし、間違っていないのであればその感情は誰に向けられたものだったのだろうか。

 私か、あの女か、それとも――――――


 今となっては、もう分からない。

 けれどあの時、私には確かに聞こえた。そして確信した。


 ボロボロになって、地獄に形を変えても縋り付いていた、私の居場所が崩れ去る音を。

「ずっと」なんていう願いは、もはや叶わないということを。


 その後のことはあまり覚えていない。

 気がついたら、あの女に手を引かれ生まれ育った街から出て行くことになっていた。

 友達にサヨナラもいえないまま、お父さんの顔も見ないまま、車は走り出した――

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