バイバイ少女。

薬袋。

第1話 ファーストキスはうがい薬の味


成績の悪さに腹を据えかねた両親によって強制的に通わされることになった予備校の冬期講習、その帰り。


「将来への投資と思って勉強なさい」


「ここで頑張れない人間は何者にもなれない!」


先生を名乗る女にそんなありきたりな言葉を何度も何度も聞かされた私は、将来への不安と若者特有の漠然とした社会への反抗心でいっぱいになり、今もこうして顔を顰めながら、ここからは大人の時間だと言わんばかりに輝く不夜城を歩いている。

言われなくても分かっていることほど指摘されると無性に痛いものだ。それが特に自分に欠けていると理解できているのなら尚更。


それにしても歓楽街というのはここが海と山に囲まれた地方の田舎であってもなぜこんなにも煌びやかなのだろうか?

やはり娯楽がこの手のところに限られるからなのだろうか?


ギラギラと輝くネオンの中、スーツ姿の通行人やビラとともに愛想を振りまく客引きに紛れて家路を辿る。

今日は終わりかけ、日付を跨ごうしている。

眠気と疲労とで視界が霞む中、ふと視線が一点で固まった。


そこには朝露だけを飲んで育ったと言われても信じてしまいそうになるほどに細く可憐な少女と、その反対に醜く肥え太った"加齢"という言葉がふさわしいおじさんの二人組がラブホテルから出てくる姿があった。


その少女には見覚えがあった。

同じクラスの千郷時雨。小麦畑のように風にゆらゆらと揺れるくすみのない金色の髪に、お洒落に着崩された学校指定の赤いダッフルコート。

田舎の女子高校生にしては妙に垢抜けているその姿は遠目からでも彼女を判別するのに十分であった。


隣の樽のような生き物と腕を組み、にこやかに会話をしている時雨を、絵画に出てくる一人だけ後光が差している女神のようだと思いながら眺めていると、ふっと視線が合った。

向こうも気がついたらしい。


その彼女の瞳があんまりにも美しいものだから見惚れてそのまま視線を合わせ続ける。

向こうも何を思ったかじっとこちらを見つめている。その目は永久凍土よりも冷たい。


そのまま数秒間見つめ合っていると、時雨の横に立っていたおじさんがこちらに気がついてギョッとしたように、一人急いで逃げて行った。


すると時雨はふっとおじさんが駆けて行った方へ顔を向け、そして呆れたようにため息を吐く仕草をしたかと思うと、こちらの方へツカツカと歩いてきた。


「こんばんは、柏村えりさん」


ニヒルな笑みを浮かべながら私に挨拶をしてくる時雨。


「こ、こんばんは、千郷さん。まさかあなたから話しかけにくるとは思わなかったわ。あっ、今日のことを誰にも話すなってこと?大丈夫だよ、これでも口は固いほうだから!」


予想外の出来事に面食らい、口先からペラペラと言葉が流れる。


「話が早いわね。でも私、人は信用しないたちなの」


そう言いながら私の目と鼻の先まで歩いてくると、彼女はするりと私の後頭部に腕を回した。


次の瞬間私の口元に何か温かいものが流れ込んできた。


それはまず私の口をこじ開け、前歯の裏の歯肉を丁寧になぞり、最後に私の舌先に絡みつき、海外ドラマでしか聞いたことのないようなくちゅくちゅとした音をたてた。


思考が溶ける。自分が何を考えているのか分からない。


理性が溶ける。自分を戒めていたものを忘れた。


身体が溶ける。溶けかけの何かで拒んでいたものを受け入れる。


苦しい。まるで水中で溺れているかのようだ。


なされるままに呆けていると時雨が私を解放した。


「黙っておいてくれるなら私、あなたになんでも差し出すわ」


放心したままの私に彼女はにこりと笑いかけ、何処かへ消えて行った。

私は何が起こったのか分からず、漫画やアニメでよく見る表現のようにヘナヘナと腰を抜かしてしまった。


しばらく酸素が足りずぼうっとしていた私だったが、笑いかけてきた彼女の目が異様に冷めていたことだけは覚えていた。


ファーストキスはうがい薬の味だった。

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