口寄せ
ベッドの中でタオルに包まれたまま寝息を立てている羅畝の表情は、眠りについた時よりも幾分、和らいでいるように見えた。
左の眼窩から咲き誇っていた花弁は枯れ落ちて、枕の周りに散らばっている。
閉じられた瞼の奥では眼球が再生しつつあるのだろう。悪くない兆候だった。
居住スペースを後にした路黒は静かに階段を登り、事務所の扉の前を通り過ぎると、さらに上へと向かった。
屋上。錆びた鉄柵に囲まれ、給水タンクと物置代わりのミニコンテナだけが存在する平面の空間。
風が吹き抜けるその真ん中に、路黒はやや乱暴な動作で
すでに太陽は沈み、夜が訪れていた。
街が表情を変える刻限。深い陰りの中で人と人でなしが蠢きあい、互いを貪り合うような時間帯。
濃密な闇が瘴気となって街全体から立ち昇っているかのようだった。
路黒は懐から取り出した円筒形の香炉を目の前の床に立てると、指先で側面を擦るようにして触れた。
しばらくすると、そこから紫煙がゆるやかに湧きあがり、あたりを漂い始めた。
酔いと怒りの覚めないうちに、アンバーに別れを告げて『咒骨商』へと戻ってきたのは、これが理由だった。
阿賀美からジィエンの頸椎骨を受け取った時点でこうしておくべきだったのかも知れない。しない理由ならいくらでも出てきたが、出来ない理由はひとつもなかった。
街が放つ瘴気と香炉から湧き出す煙を肺にたっぷりと吸い込み、ゆるやかに吐き出した。吸って、吐く。吸う。吐く。舌先が痺れる。喉が渇く。鳩尾のあたりが妙にむず痒い。全身から熱が失われていく感覚。錆の匂いがした。
指がまだ自由に動くことを確かめ、路黒はポケットから件の骨片を取り出すとそれを床に転がした。
それから透明な液体を詰めた細い硝子管を
閉じた視界の裏側、
針先で突かれたような痛みが襲い、路黒の眉間に皺が寄ったが表情は変わらなかった。
こぉ、と鳴ったのは路黒の喉だった。風の音にも似た響きが声帯を揺さぶり、優しく締めあげていく。うお、おお。こおお。低く、遠く、深い場所から噴き上がるかのような音の連なりが重なり合い、声を形作ろうとしていた。
おお、お、うお。おわ、え。おまえ。お前、お前は誰だ。おれ、俺は。ここは。あれ、なんだここは。ひどく暗い。寒いなあ。クソ。
路黒の口から、路黒のものでは無い声がこぼれた。驚くほどはっきりとした男の声が。
「ラオ・ジィエン。男性。下層ニ区の古物商」
今度は路黒自身の声が、路黒の内側にいるものに対して語り掛ける。招き寄せられた者に向けて。奇妙な対話が始まろうとしていた。
「ラオ・ジィエン。古物商。アンティーク。下層。家族。」
関連する単語を並べ、相手が反応する情報を探っていく。それは同時に思考の混乱と暴走を防ぐ為でもあった。
アンティーク。そうだ。古物商。みせ。俺の店。おれは、ラオ・ジィエンだ。
「気分はどうだ。古物商のラオ・ジィエン」
気分。気分はよくない。悪い。寒い。さむいぞ。つめたい。ああ。ひどいな。
「ジィエン。あんたは今どこにいる。何が見える」
どこ。どこだここは。俺はどこだ。暗くて何も見えない。冷たい。ぐちゃぐちゃだ。濡れてる。気持ちが悪い。かえりたい。いえ。俺の家は。家はどこだ。俺はいま。
動揺と興奮。鼓動が早くなる。強くなる錆の匂い。意識が引き延ばされ、時間の流れが掴めなくなってきていた。精神の揺れを抑え込みながら路黒は質問を続ける。
「落ち着けジィエン。手を借りたい。探しものだ。探している。あんたを」
おれ。俺か。探している。俺はどこに。嫌だ。暗いところだ。寒くて冷たくて濡れて湿っている。帰る。どうなって。どこにいるんだ。ああ。気持ちが悪い。探してくれ。はやく。はやくはやく。
「手がかりが欲しい。取引。掘り出し物の“本”。金銭。交渉相手。エスとは誰だ」
取引。本。ほん。あ。あああ。そうだ。本。本だ。俺の“本”。あれを売り払ったらあんなクソ溜まりから抜け出して俺は広い部屋に住む家具を揃えて水槽を置いてそうだ猫も飼おうもっと明るい蛍光灯に変えなきゃ見晴らしのいい上層の家日々の暮らし平和です平穏です安全です楽しいくらし毎日まいにちチンピラどもに脅されず殴られず壊されず苦しまず未来だみらい未来みらいのしあわせのかたち俺の未来の
その瞬間、路黒は自分の失敗を悟った。“本”という単語を口にした途端、ジィエンの言葉がとめどなく溢れ出し、軌道を逸し始めたからだ。酒の酔いか自覚した怒り、あるいはそのどちらもが問い掛けを誤らせたのだ。引くべきでないカードを引いたと気付いたが、もはや手遅れだった。
こうなっては対話どころでは無かったが、少しでも情報を引き出す必要があった。構わない、好きなだけ喋るといい。
ぶつぶつと頭の中で何かが切れる音を聴きながら、路黒は歯を食いしばった。
返せおれの未来をかね金かねあのクソアマ俺を騙しやがって金だカネをよこせカネをクレジットを払いやがれおれの俺の本だ俺の見つけた本だ俺が掴んだおれのおれのおれのいのちああ俺のいのち命まで盗みやがった俺のぐげぐげげげかああ
喉元が腫れたように熱を発し、うまく息ができない。眼球が充血していくのを感じながら、路黒は断片的に流れ込んでくるジィエンの
装甲リムジンによる出迎えに、意気揚々と乗り込むジィエンの高揚感。振る舞われるシャンパンの味。軌道エレベーターの微かな振動。期待と不安、歓喜と怯え。抱えこんだ鞄の中身。“本”。自分の人生を変えてくれる幸運のアイテム。暗転。
「御足労頂き、感謝します。ミスター・ジィエン」女の声。足下に冷たい石張りの床の感覚。金を先に見せてくれ。俺の未来への切符。素晴らしい。まるで夢みたいだ。そうだ、夢は必ず覚める。髪を撫でる指。角と鴉。真実は人間の数だけ存在する。起きた物事はすべて真実だ。君が選べと、語り掛ける人影。その姿は霧に包まれたように白くおぼろげで。
記憶が混濁していた。まだらになった路黒とジィエンのヴィジョンが脳裏を駆け巡っている。負荷に耐え切れず、紅の涙が頬を伝った。
取引成立。自由。自由になる。俺はやり直す。新しい暮らし。好きにするといい。「上層階へようこそ。我々を引き合わせた“絆# ストランド”に感謝を」充足感。幸福の匂い。それでは良い夢を。突然の暗黒。首になにかが巻きつく。輪が狭まる。心臓の音。遠くなっていく。水の中。呼吸が止まる。まずい。セーフティを。指に力が入らない。このままでは。
ぱん。
硝子の砕ける音がした。鼻孔の粘膜から突き込まれた強い刺激臭が脳天までを通り抜け、否応無しに肌が総毛立つ。
その衝撃でジィエンのヴィジョンが剥がれ落ち、意識が薄闇の水底から急速に浮上してきていた。同時に激しく咳き込みながら崩れる路黒を、柔らかなタオルの感触が包み込んだ。
「ひとりで口寄せしないで、って言ったじャない。こういう事になるからさ」
そう言って路黒の肩を抱きながら、裸の羅畝は左目を閉じたまま、泣き笑いに似た表情でにっこりと笑った。
その両手はすでに人間と同じ形状に戻っており、割れた気付け薬の硝子管を握る路黒の手を、その上からきつく包むように握りしめていた。
「すま、ない。ありがとう、助かった」
血液まじりの涙を流しつつ、洟# はなと汗にまみれた顔で頭を垂れる路黒。
対して、路黒を覚醒させる際に気付け薬のガスを一緒に吸い、涙目になった羅畝。
ふたりは至近距離で見つめ合い、そして――同時に大きなクシャミを連発したのだった。
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