第三章 怒り
浴室にて
『咒骨商』の事務所はビルの二階、狭い階段を昇った先にある。
一階は路黒と羅畝の居住空間、と云えば聞こえはいいが、要は荷物や仕事道具を保管するための倉庫の片隅、パーテーションで区切られたスペースにテーブルやベッドが置かれているだけの事である。
水周りも絶妙な不便さを誇り、キッチンやトイレ、浴室はすべて事務所の奥にあった。必然『弔い』にまつわる調査が長引いた時などには利便性を追求した結果、来客用のソファが仮眠用の寝具に変わる事も少なくない。
壁にかけられたカレンダーは近所にある行きつけの食料品店からの貰い物で、酒瓶を手にした水着姿のアンドロイドが微笑しているという奇妙な代物だ。
翌週の不燃ゴミの日が赤い丸で囲ってあるのは、羅畝が記したものだろう。部屋に入った瞬間からポスター脇の壁に、穴が空いている事に路黒は気がついていた。
「本当に襲撃されたらしいな」
指先で穴の縁をなぞりながら、弾丸が飛来した方角を確認する。弾丸は川向こうの工事現場から放たれた様だったが、狙撃手は既に立ち去った後のようで、狙われている気配はしない。
撒き散らされた体液の状態から見て、羅畝は窓の近くに立っていたところを狙撃されたようだった。先ずは胸部に一発、それから頭を撃たれ、衝撃で仰向けに倒れたものと思われた。
路黒はふん、と頷きながら、床に残る痕跡を追って事務所の奥へと進んだ。意識を取り戻した羅畝が、這いずりながら向かった先。
流れ続ける水の音。床を叩くシャワーの響きに混じって微かに聞こえる嗚咽。曇りガラス越しに薄っすらと見える浴室の中で、なにかが揺れているのが見えた。
「羅畝」
軽いノックの後、路黒は返事を待たずに浴室のドアノブに手を掛けた。開かない。鍵がかかっている様子はないが、内側から強い力で押さえつけられているようだった。外界を拒絶する、もしくは自分自身を閉じ込める行為。
コートを脱いで片隅に放りハイネックの袖を捲くると、路黒は改めて浴室のドアに向き直る。ドアを蹴破るのは簡単だったが、あとが面倒だった。
ドアそのものを外すべく蝶番に指先をかけながらふと、
社会性、共感、あるいは庇護欲の発露。無意識に“情愛”という言葉を遠ざけたがる自分を薄目で認識しつつも、路黒は作業に没頭する事で気を反らした。
心の何処かが焼けていた。熱を持たない冷たい炎が内側から路黒を焦がしていくようだ。得体の知れない衝動と感情が泡のように湧き上がっては、表面に浮かび上がる前に消えていく。酷く喉が渇いていた。
ばきり、と音がして浴室のドアが外れた。力を入れると、内側から張り付いていた植物の蔓がぶつぶつと千切れ、落ちていく。シャワーの音がひときわ大きくなった。
羅畝がそこにいた。水を張った浴槽に服を着たまま浸かり、縁にもたれかかるように顔を伏せている。
「おか、えリ」
ざらついた声で、ゆっくりと羅畝が顔をあげた。その顔の半分を覆い隠すほどの、大きな花が咲いていた。
左の眼窩にあたる部分から開いた深紅の花弁が水を弾きながら揺れている。それよりひと回りほど小さい花が、胸と背中から咲いていた。
両の手脚は関節のなかほどから解けて蔓草の束と化し、浴室の壁や床に根を張りつつあった。拡がった一部の蔦は天井まで伸びて垂れ下がり、小さな葉を揺らしている。
「ごめん、ねェ。撃たれ、ちゃっタ」
「すまない、こちらも油断していた。お前を狙ってくるとは」
シャワーを止め、浴槽の脇にしゃがみこんだ路黒は、ぐすぐすと鼻を
底に沈んだ開封済みのガラスアンプルは植物用活力剤のものだ。ひどい怪我をした時、羅畝はこうして入浴剤代わりにアンプルを使用するのが常だった。
「調査は……どうダった?」
「順調だが、手に入れた情報を精査する時間が必要だな。気長にやるしかない」
羅畝が狙撃された事や自身が猿衆に襲撃された事実には敢えて触れず、路黒はすこし休め、と言いながら浴槽に腕を差し入れると、羅畝の身体を抱きかかえた。
全身から滴る水を気にする様子もなく、長く伸びた手脚の蔓を踏まないよう横抱きにして階段を降りた。
一階の居住スペースに辿り着き、銃撃で破れた衣類を手早く脱がせると、おおきなタオルで全身を包むようにして羅畝をベッドに横たえた。
その上から毛布を掛けてやった路黒は、彼女が涙を流し終え、やがて眠るまで、ただ静かにその側に立ち尽くしていた。
自分の胸の奥で揺らぐ炎の正体は掴めないままだった。
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