花
治安維持管理局のデータベースに侵入した痕跡を消去しながら、路黒との通信を終えた羅畝はモニター前から離れると、あくびをしながら大きく伸びをした。それから事務所の中を見回すと、うぇ、とダルそうな声を漏らす。
そこは数日前に訪れた『壊し屋』たちが勝手放題に荒らしたままの状態だった。床に散らばるファイルの山。テーブルの上で岩より固くなったピザ。持ち手の砕けたティーカップ。植え直したはずの観葉植物も力尽き、鉢の
もちろん、好きで放置していた訳ではない。散々な荒れ様に片付ける気力が湧かなかったのだ。おまけに帰還してきた阿賀美との邂逅と、わずかばかりの
「あーあ、面倒くさいけどやるかぁ」
大きな独り言で自分を奮い立たせながら、羅畝は腕まくりをして部屋の掃除に取り掛かった。その腕は付け根から肘の下あたりまで、彼女の髪色と同じ薄緑色に染まっている。
羅畝は、
希少な存在と言っていい。なにせ漂流街全体を見ても、彼女以外に目撃例は無いのだから。
三年前、とある事情で庇護者を失い途方に暮れていた彼女は、阿賀美によって保護されて以来、ほぼ同じ境遇にあった路黒と同じ屋根の下で生活してきた。性格は異なりながらも相性の合ったふたりは、年の離れた兄妹のような『家族』の関係を築いてきたのだった。
「ごめんねショーン、さよなら」
枯れた観葉植物の名を呼んで、冥福を祈りつつゴミ箱に投げ入れた羅畝は、続けてテキパキと室内を片付けていった。キャビネットやロッカーは元の位置に。ばら撒かれた資料の束は整理し直して、割れた食器類は透明な袋に入れて固く口を縛り、最後に冷蔵庫に貼られたカレンダーを確認して、不燃ゴミの日に丸を付けた。
小一時間が過ぎる頃には、咒骨商の事務所はすっかり元の姿を取り戻していた。やったぜと言わんばかりに、得意げな表情で額の汗をぬぐった羅畝の腹がぐぅと鳴った。
外を見れば、折しも風が吹いて汚染物質# スモッグ の霧が晴れ、頭上から陽光が降り注いでいた。太陽の光が綺麗に下層まで届くのは珍しい。羅畝は小走りに窓辺に駆け寄ると、両手を広げて空を仰いだ。
「わー!気持ちいいー!」
街は輝いていた。雲間を抜け霧の残滓を貫いて、力強く射し込んだ太陽の光が世界の輪郭をくっきりと照らし出していた。
なんでもない、平凡で薄汚れた街並みのあちこちが煌めいて見え、羅畝は嬉しそうに目を細める。苦労も多い毎日だが、退屈だけはしないで済んでいる。そんな自分を幸運だと思うべきなのかも知れなかった。
不意にどこかで、ぱしん、と音がした。
顔を動かして室内を振り返る。背後の壁にいつの間にか、ぽつりと黒い点が描かれているのが見えた。
「あ」
羅畝が、わずかによろめいた。胸元に手を当てると、そこからじわじわと何かが染み出しているのが分かる。揺れる視界で、窓の外に目を凝らした。
太陽はすでに顔を隠しつつあった。
雲が完全に光を遮る最後の瞬間、ライフルスコープの反射光がきらりと瞬き、800m/秒で飛来した二発目の7.62mm弾が羅畝の顔面を撃ち抜いた。
花が咲いた。
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