怪人 -2

「そこで何してる」

 不意に投げかけられた威圧的な声と同時に視界が白く塗り潰され、路黒は目を細めた。

 顔に向けられたマグライトの明かりでよくは見えないが、相手の装備したスタンロッドのチャージ音が耳に障る。


「何だこれは。お前がやったのか」

 すい、とライトの明かりが逸らされ、空き地の中を円形の光がふらふらと流れた。地面に置かれた腕時計、テープに吊られた花束の群れ、壁に刻まれた不気味な文字列と無数の血痕――それらを順に捉え、最後にふたたび焦点が合わされた時、路黒は既に身支度を終えた後だった。


 香炉を仕舞ったアタッシュケースの上に畳んだコートを載せ、ハイネックの袖をまくり上げて腕を肘まであらわにした路黒が、両手の五指を揃えてまっすぐに伸ばし、肩の上まで挙げている。つまり、降参のポーズだ。


 それを見た相手がマグライトの光を地面に落としたことで、ようやく正体が明らかになった。

 オレンジ色の制服に防刃仕様のベストを重ね着した、年若い警官が空き地の入り口を塞ぐようにして立っている。表情を変えないまま、路黒は小さく鼻を鳴らした。

 

 この街で治安維持管理局への所属を示す橙色の制服に、好意を抱く人間は少ない。都市全体の保安を担う公的な法執行機関ではあるものの、その実態はお世辞にも公明正大とは言い難い暴力装置であるからだ。

 権力をかさに着た横暴な行動に出る警官も多く、それでも彼らを頼らざるを得ない状況に、一般市民は不信と畏怖をないまぜにした複雑な感情を向けていた。


「特別な事は何もしてない」

「特別かどうかはこちらで判断する。身分証を提示しろ」

 路黒と警官の網膜ディスプレイが同時に青い光を放ち、細かく明滅した。埋設された通信装置が瞬時に情報をやり取りした証である。


「こいつは……なんて読むんだ」

「咒骨商」

 じゅこつしょう、と口の中で繰り返した警官はすこし考えるような素振りのあとで、思い出したように言った。


「本部のデータベースで見たことがあるぞ。たしか要注意指定を受けた団体だな」

「知らん。あんたらが我々をどう評価するかは勝手だが」

「黙れ。とにかく、お前は不審者だ。参考人として身柄を拘束する。頭に両手を乗せて後ろを向け」

 ため息を吐きながら路黒は言われた通り、後頭部に手を当てて警官に背を向けた。地面を踏みしめながら歩み寄る音が聞こえる。しゃらしゃらという金属音は取り出した手錠の音だろう。

 足音が真後ろで止まった。


 次の瞬間。

 身を沈めた路黒の頭上を、空気を裂きながらスタンロッドが通り過ぎた。

 振り抜いた勢いでバランスを崩した警官の腹を、振り返りざまに蹴り上げた路黒はその感触に違和感を覚え、すばやく距離を取った。


 管理局に属する警官には、人工的に肉体を強化している者が多い。職務の性質上、暴力を伴ったトラブルに接する機会が少なくない為だが、目の前で嘔吐している警官も例外ではないようだ。


「おお、お前ぇ」

 ぐええと胃の中身を吐き戻しながら警官が呻いた。突き刺すような殺意が燃える視線に、もはや法の番人の面影は微塵もない。


「ぎょう、業務、執行妨害でお前を」

「おい、殺そうとしておきながら、まだ茶番を続ける気か」

 路黒は靴先で地面をトントンと蹴りながら、呆れたように言った。


においで判った。ここはお前の『巣』だ。攫われた女たちは全員、この空き地で殺されている」

 握りしめられた拳の強さに黒革の手袋がみしみしと音を立て、腕に盛り上がった血管が脈動する。静かで、明確な怒りがそこにあった。


「その死骸は街のあちこちに捨てられたが、彼女たちはこの場所にずっと“遺されて”いた」

 正体を看過された警官は、もはや話を聞いていなかった。火花が散るスタンロッドを振りかざし、自分の『巣』に入り込んできた外敵を排除しにかかる。


 頭や首筋を狙った攻撃が空を切り、電光が尾を引いて続く。それをゆるやかな動きでかわしながら、路黒は語り続ける。相手に聞かせるためではなく、己の思考を吐き出すように。


「だが弔いは終わり、彼女たちは去った。ここから先は」

 鈍い音がした。路黒の突き上げた掌底が警官の手首を打ち、それにより軌道を歪められたスタンロッドの先端が持ち主の顔を突いたのである。肉の焦げる臭いと、絶叫。


「俺の、個人的な感情にる行為ということだ」

 地面に倒れ込み、両手で顔を覆って転げ回る警官に、路黒はゆっくりと近付いていった。その表情は仮面のような冷徹さと、ある種の荘厳さをたたえたままではあったが、瞳の奥から湧き上がる黒い衝動は隠しようもない。目に見えない炎が全身から噴き上がっていた。


 しかし、強すぎる情動は時として、力と同時に意識の空白を生む。

 倒れたままの警官の足元から、不意に射出された硬質ワイヤーが上半身に巻きつき、食い込むのを路黒は防ぐことが出来なかった。


 警官が弾かれたように跳躍した。倒れ込んだ姿勢からワイヤーで拘束した獲物に組みつく姿は人間というより、まるで蜘蛛だ。


 ずぶり。


 初めて路黒の表情が歪んだ。それは蜘蛛男に絡みつかれた不快感と、布を裂いて自分の腹部に突き立てられたナイフの痛みによってもたらされるものだった。苦痛に噛み締められた犬歯の間から呼気が漏れた。


「やってくれたな、呪師まじないしぃ」

 片手で路黒の腹部から生えたナイフの柄をしっかりと握り、もう片方の手で喉元を押さえつけながら粘つく声音で警官が笑う。その顔は電撃によって引きれ、焦げた血と憤怒で赤黒く染まっている。


「オレはさぁ自分の役割を果たしただけなんだよ。街の掃除は誰かがしなきゃいけないしそのついでにちょっとした愉しみがなきゃやってられんよなハハハ」

 這い回る指先が路黒の束ねた髪を乱暴に掴み、バラバラに崩した。身動きできない路黒の頬に自分の唇を寄せて、興奮した早口で警官は喋り続ける。


「それなのに酷いじゃないかええオカルトかぶれのクソ野郎めぇ。おかげでこの場所も捨てなきゃならんしああもったいない誰にも邪魔されないステキな狩り場だったのになあああもおお」

「……が」

「はああ?なんですって聞こえませんよお客様あぁ」

 耳に届かないほど小さく漏れた言葉に、苛立った警官はその口元に耳を寄せ、髪を掴んだまま頭を揺さぶった。路黒の鼻孔から細く血が流れ出た。


「――非道のわざには、必ず報いがある……」

「へえ天罰ってやつかなうんうん、じゃあ善良なおまわりさんの顔をこんな風にしたお前にも当然報いがあるよなあああ」

「そうだ。自らの行為のツケを払うタイミングは必ず訪れる――俺にも、お前にも」


 風が吹いた。


「お前の場合は、今だ」

 鮮血が飛沫しぶいた。突如として路黒が警官の顔に喰いつき、噛み千切ったのだ。悲鳴をあげながら身をのけぞらせた警官は、反射的に握っていたナイフを抉り、更に奥へと突き入れようとした。


 動かなかった。硬い岩に食い込んだように刃はピクリともしない。たまらず手を離した勢いで尻もちをついた警官は、それを見た。


 路黒の乱れた黒髪がざわざわと波打ち、紫紺の瞳が黄金色に変じていく。顔には隈取# に似た文様が浮かび、額がせり出し口は耳元まで裂けて、そこから覗くのは白く鋭い牙だ。音を立てて隆起していく筋肉に耐えきれず衣服が破け、腹部に刺さったナイフが内側から押し出された。太く、無骨に変形した五指で刃物でも切れないはずのワイヤーを引き千切りながら、二本足の虎が夜に吼えた。


「おい嘘だろ、虎人とらびとかお前!」

 剥がされた顔を片手で押さえ、四つん這いになりながら逃げ出した背後で、照明灯の砕ける音が聞こえ、途端に周囲は闇に包まれた。

 押し迫る静寂の中、自分の荒い呼吸と心臓の音だけがやけに大きい。とにかくこのまま進めば空き地から出られる筈だと、息を殺したまま駆け出そうとした警官は、すぐにバランスを崩して転倒した。


 忘れ物だ、という低い唸り声と共になにかが地面に放り出された。手探りで拾い上げたそれが、もぎ取られた自分の足首だと気がついた瞬間に警官は叫んだ。暗闇の中に浮かんだ金色の瞳が、彼を押し潰すように迫る。


「まず両手足を捻じ切り、自由を奪う。それから両目を潰し、光を奪ったのちに街路に晒す。貴様が彼女たちにしたようにな」

 脅しではなかった。これから行われる事実を告げるだけの、静かな声だった。


 こんなはずではなかった。何がいけなかった。女たちの死を愉しんだことか。それとも殺し方が悪かったのか。なぜだ。自分は真面目に与えられた役割を果たしただけなのに。ああ、俺は、これから。


 「さあ、業が還って来たぞ」

 悔恨と恐怖の絶叫は誰にも届かないまま、絶望の波濤はとうが追いつき、男を飲み込んだ。

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