吼える虎 ー 漂流街奇譚 ー

海坂内海

序章

怪人 -1

 通り雨が残していった水溜りに、街路を毒々しく彩るネオンサインの明かりが映えている。それを避けながら薄暗い裏路地に踏み入ると、途端に表通りの喧騒は遠ざかり、反響する不明瞭なノイズとなった。壁を走る無数のパイプの継ぎ目から吹き出した蒸気が、夜の闇に白く溶けていく。


 路黒ロコクは積み上げられたゴミの山の間を抜け、静かな足取りで裏路地のさらに奥へと歩を進めた。


 建物の間をうねりながら細かく枝分かれした通路は、緩やかに下方へと傾斜しているらしく、踏み込んだ者を知らぬ間に地の底まで誘っていくかの様にも感じられた。


 まるで待ち受ける怪物の口に自ら滑り込んでいくようだ、と路黒は思う。もっとも噂の通りに、この街が"生きている"のだとすれば、その感覚もあながち間違いではないのかも知れないが。


「ここか」

 何度目かの曲がり角を折れた先で、路黒は歩みを止めた。眼前に立ち塞がる薄汚れた路地の壁を軽く指で叩き、感触を確かめる。それからコートの内ポケットを探って携帯端末を取り出すと周波数をいじり、それを行き止まりに向けた。


 ブウ……ゥゥン……微かな振動を伴いながら、古びたコンクリートの感触まで再現した立体映像による偽装が解けていく。


 指向性重粒子を散布することで、擬似的な質量を有した立体映像を展開する技術は街のいたる所で活用されているが、特定帯域のパルス信号をぶつけることで強制的に解除できることは余り知られていなかった。


 やがて、視界が完全にひらけた時、路黒は自分が目的の場所にたどり着いた事を確信した。座標を確かめるまでもなく、目の前に展開された光景は、そこが『現場』である事を雄弁に物語っていたからである。

 

 そこは空き地だった。

 入口を除いた三方向を壁に囲まれ、見上げれば暗い夜空と、そこを走る街の眼、監視ドローンの描く軌道だけが見えた。じっとりと湿った空気が立ちこめ、息苦しさすら感じる。濁った場所だ、と路黒は思った。


 壁際に立てられた照明灯が空き地全体をぼんやりと照らしている。その中に浮かび上がっているのは、建物の壁と壁を繋ぐように張り巡らされたビニールテープと、そこに吊り下げられた無数の花束だった。湿った風に揺られた花束同士がぶつかり合い、ざわざわと音を立てている。壁にはいくつもの文字列が刻まれていたが、どれも支離滅裂で理解できそうもないものばかりだ。


 そんな異様な景色に臆する様子もなく、空き地へ踏み込んだ路黒の全身が、光の下であらわになった。


 濃緑色のコートが柔らかく光を弾き、結い上げた長い黒髪が揺れた。一見すると鼻筋の通った線の細い美丈夫だが、目尻に引かれた真紅の隈取りが妖しげな印象を強く漂わせている。その整った横顔は、憂いを刻み込んだ彫像とでも言うべき静謐せいひつさを湛えてはいたが、油断なく動く瞳が警戒心の強さを示していた。


 すらりとした長身に、張り付くような黒色のハイネック。浮き上がった筋肉のしなやかさが、どこか猫科の獣を想起させる。


 路黒は猫背気味になりながら、滑るような所作でビニールテープの網を潜り、空き地の中央へと進んでいった。


 雨に濡れて黒ずんだ地面に点々とこびりついた染み、撒き散らされたと思しき赤黒い液体の痕跡。

 路黒は何かを確かめるように鼻先を宙に向けてすんすんと鳴らし、軽いくしゃみをすると仕事に取り掛かった。


 片手に提げたアタッシュケースを地面に下ろし、ナンバーロックを解除した彼が取り出したのは円筒形の香炉、透明な液体の詰まったペットボトルと汚れた女物の腕時計、そして小箱だった。


 香炉と腕時計を地面に置き、ペットボトルの中身をその周囲に振り撒くと、路黒は小箱の蓋を開け、中身を無造作にばら撒いた。


 精製されたアルコールの清冽な香りが大気に放散していく中、からからと音を立てながら大地に降り注いだのは白く乾いた無数の骨片だ。

 

 黒い革手袋に包まれた指先が香炉に触れ、しばらくすると薄く煙が漂い始めた。広いとはいえない空き地の底から紫煙のとばりが満ちていくまで、路黒はじっと目を閉じて立ち尽くしていた。

 

 息を吸って、吐く。吸いこんで、吐き出す。呼吸のたびに煙が身体の内側へ染み込んでいくようだ。じわり、と頭の芯に冷気が入り込んでくるような違和感があった。


 心臓の鼓動が耳元で囁き始め、見えない触手が頭蓋をゆるやかに締め付けている。煙の向こう側で、なにかが蠢く気配がした。


 おお、おう、おおお。


 声がする。声は頭上から降ってくるようでもあり、地の底から響いてくるようでもあった。悲哀と苦痛に満ちた無数の怨嗟の声が、泡のように湧き出しては消えていく。


 う、おあ。あう、おお。ああ、おあえ、え、おまえ。わたし。わたしたち。が、があ、が。らい、くらい。さむい。


 歪み、捻れた単語の連なりがり合わされ、意思を形取っていく。色濃く立ちこめた煙の中に、いくつもの細い腕や崩れた顔がもがくように現れては、また沈んでいった。鼻の奥から鉄錆に似た臭いがこみ上げてきていたが、路黒はただ静かに耳を傾けていた。


 くらい。さむい。さむういい。うう。い。いた。いたい。いと、いとが。いたいいたい。おう、おわれ。おそわれた。おう。くるしい。くも。あああ。なぜ。なぜわたしが。いやだ、いやだ。こわい。ここ。ここは。


「もう終った」

 低く、凛とした声が響いた。揺らぎのない鋼のような、それでいて静かに熱を帯びた路黒の声に、辺りを覆う薄煙のカーテン越しに身悶えするような気配が伝わってくる。


「ここには何も無い。留まる意味も」

 憐憫ではない。同情ではない。

 淡々と事実を告げる、静かで、どこか柔らかな路黒の響きに、おお、うおお、と呻き声が躍った。なにも。なにもない。な。ない、ない。


「痛みも、苦しみも」

 いた、いたい。いたみも。いたく。いた。いた、くない。いたくない。は。くるし。くるしくない、ない。からだ。わたし。わたしたちの、からだも。ない。もうない。いたくない。くるしく、ない。はあ、あ、あああ。あ、ら。あり、がとう。やさしいひと。ありがとう。


「さようなら。願わくば、良い旅路を」

 風が吹いた。ざわざわと花束が鳴き、淀んでいた香の煙が巻き上げられるようにして散っていく。やがて、すべてが去っていった後、空き地にはひとり路黒だけが残された。


 まるで最初から何事も無かったかのように立ち尽くす男の頬を、ひとすじの涙が伝ったが、その理由は誰にも分からなかった。

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