いつもより、少ししょっぱい梅雨の話

永多真澄

いつもより、少ししょっぱい梅雨の話

 私の高校生最後の夏は、夏が訪れるちょっと前に終わった。


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 よく晴れた日だった。まだ梅雨もあけていない六月の末だというのに、空は抜けるようにからりと青かった。浮雲がちらほら浮かんでいるだけの空からは、太陽が遠慮なく光と熱気を振りまいている。

 夏の気配を隠そうともしないような、そんな晴れた日とは打って変わって、この部屋の空気は陰鬱だ。陰鬱というのは言い過ぎかもしれないけれど、どこかじめじめしている。後輩の中には、えぐえぐと涙ぐんでる子までいた。私は大きく手を二度打った。乾いた音が響く。


「はいみんな、切り替えていこう。確かにインターハイは逃しちゃったけど、大会だけが全部じゃないんだから。この後打ち上げもあるからね。今日はパーッと騒いで、発散しよう。オーケー?」


 思ってもいないことを言っている自信はあった。それでもいわなくっちゃならない。だって私は部長だ。私が折れてちゃ、もうどうしようもならないじゃないか。

 私はつとめて笑顔を作って、いまだ泣き止まない後輩の肩を両手でつかんだ。目を合わせてやると、後輩はずるずると鼻をすすり上げた。


「今回駄目でも、今回のことをしっかり胸に刻んで、次回に生かせばいい。体を鍛えるのもそうだけど、心をこそ鍛えないと。ね?」


「で、でも。先輩は……」


 私は意識して綺麗事を並べたてた。後輩は目を伏せる。言い淀む。私は喉がかすれそうになるのを何とか堪えて、肩においていた手を後輩の頬に移し、ふにふにと捏ね上げてやった。


「人の心配なんて二年早いんだよ、一年生」


「ぶえぇ」


 後輩の口から間抜けな濁音が漏れる。私が笑うと、部員のみんなにもそれが伝播した。後輩も泣き止んで、今はほっぺたを抑えて恨みがましい目を向けている。ごめんて。


「じゃ、五時に駅前集合ということで! 私は準備とかあるし、お先に上がるね」


 私は再び手を打ってそう宣言すると、部屋を後にする。去り際、副部長が私の肩を小さく小突いた。敵わないな、と思った。


///


 体育館の裏の非常階段は、基本的にあんまり人が来ない。一人になるには、いい場所だった。

 私は段に腰かけて、踊場の隙間から見える狭い空を見ていた。ぼうっと見ていた。

 いくらかそうしていたろうか。不意に階下から物音が上がってくる。あんまり人が来ないというだけで、人が来ることはあるのだ。


「よう」


 上がってきたのは、見知った人物だった。星見史郎は幼馴染で、この場所を教えてくれたのもこいつだ。きっとアタリをつけるくらいは容易い。

 星見史郎は右手にビニール袋を下げ、左手にはポットを下げていた。右手のビニール袋を持ち上げて、史郎は言った。


「赤と緑、どっちがいい?」


「…………たぬき」


「ン。まだ何も食ってないんだろ」


 私は史郎から緑のたぬきを受け取って、少し脇にどいた。

 史郎は私の横に腰を下ろすと、ポットを二人の真ん中に置いた。


「どうしたのよ、これ」


「天体観測の頼れる味方だ。遠慮することないぜ。部室に山盛りにあるから」


 みれば、底面に印字された賞味期限は一日過ぎていた。


「ん」


「ン」


 包装を剥いで、粉末スープを入れて。てんぷらはまだ載せない。椀を受け取った史郎がそれに湯を注いで、割りばしと一緒に返した。

 史郎は史郎で赤いきつねの包装をはぎ、湯を注いでいる。ポットが湯を吐き出す音が、少し響いた。


「……」


「……」


 それから五分間、私たちは特に何もしゃべることはなかった。蓋の上に乗せたスマートフォンがピリピリと鳴り出すまで、二人でそろって空を見ていた。


///


「ズッズッ、ズズズ……」


 思っていたよりも、私はおなかが減っていたらしい。きっと気を張り過ぎていたのもあるんだろう。カップそばってこんなにおいしかったっけ。

 非常階段に、麺を啜る音が響いている。結局食べ始めても、私たちは無言のままだった。


「惜しかったな」


 無言を破ったのは、史郎だった。史郎は椀に目線を落としたまま、ぽつりと言った。


「うん」


 私もずるずると麺を啜りながら、短く答えた。

 史郎はそれきり、なにも言わない。また、麺を啜る音だけが響く。


「みんなには偉そうなこと言っちゃったけど、やっぱ惜しかったわ」


 私はそばを咀嚼しながら、もごもごと言った。史郎は答えず、こちらを見る素振りもない。


「中学でやめちゃったあんたは知らないだろうけど、私、結構頑張ったんだよね」


 史郎は答えない。ただスープを啜るズズッという音だけが返ってくる。


「十二年やってきて……あいや、十一年半か。どっちにしたって最後の大舞台だったんだし。惜しかったよ」


 史郎は答えない。ただ油揚げを食むモソモソという音が返ってくるだけ。


「こういう時さ、よく映画やドラマで「夏が終わった」っていうじゃん。おっかしいよね。まだ夏になんてなってもないのにさ。ズズっ」


 スープを啜る。こころなしか、さっきよりも塩味が増したような気がした。関東風だったっけ、これ。


「あーあ、終わっちゃったなぁ。結構、頑張ったのになぁ。ズズっ……ぐすっ」


 さっきは塩辛いと思った味が、今はもうわからなくなっていた。喉が引きつって、鼻の頭が熱い。わかっている。どう言いつくろったって、私は悔しいんだ。

 史郎はゆっくりとスープを飲んだ。

 私は少し泣いた。


///


「ほれ」


 史郎はすっかり完食したカップを脇に置くと、ビニール袋からふわふわのタオルを取り、渡してきた。史郎はそこでようやく私の方を横目で見て、こらえきれずに小さく噴き出す。


「バスタオルのほうがよかったか?」


「馬鹿」


 よっぽどひどい顔をしているのだろうか。よっぽどひどい顔をしているのだろう。私は不貞腐れて、史郎はけらけらと笑った。


「たまに食うといいもんだろ、カップ麺もさ」


 史郎は紙コップを取り出して、茶を淹れる。私は残ったスープをひと息で干して、コップを受け取った。


「ん。たまには、そばもいいかも」


「だろ?」


 くつくつと史郎は笑って、ちびりちびりとコップに口をつける。気づいただろうか。気付いただろうなぁ。


 私の頬が少し赤いのは、きっと熱いお茶のせいだ。

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