旅のあとには
カワナミ リオ
第1話
赤いきつねの蓋をめくり、途端に立ち上った湯気を顔面に浴びる。 「メガネ曇ってるよ」 という夫の指摘に 「うん」 とだけ答え、出汁の香りを感じながらスープをすする。無意識に大きく吐いた息で湯気が揺れるのを見て、ようやく緊張が解けた。
向かいに座る夫は爽やかな音と共に缶ビールのプルタブを起こす。そのまま飲み干してしまいそうな勢いで中身を流し込んでいる。
通夜の後の食事は寿司に天ぷらに、と文字通りのご馳走が並んでいた。
けれど瓶ビール片手に親戚の間を周り、ようやく座った時には寿司も天ぷらもメインらしいものはろくに残っていなくて、テーブルの端で唯一存在感を放っていた煮物もひんやりと冷たくなっていた。一つ二つつまんで咀嚼し、泡の消えたビールを飲んで終わり。今の私にはこのカップ麺の方がよほどご馳走に映る。
「お義父さん、良い顔してたね」
テレビの方を向いたまま夫が言う。
「うん。綺麗にしてもらって、ありがたかった」
棺に眠る父の顔は、なんなら生きていた頃より艶やかに見えた。母がしきりに 「お父さん良かったね」 と言っては、その度に涙ぐんでいた。
夫がふいに缶をこちらに向けて持ち上げる。もう一本持ってきてくれ、ということなのだろうか。
「いいけど程々にしてよね。明日も朝早いんだから」
明日は早くから告別式の準備に行かねばならない。喪主は母だが、手助けすべきことは山ほどある。
ビールを取りに行こうとすると、夫は 「ちがうちがう」 と引き止めた。
「献杯だよ。今日は大変だったでしょう。お疲れ様」
ム、とした気持ちが和らぐ。
「そっちこそ。今日はありがとう。明日も頼むね」
私は赤いきつねのカップを盃代わりに両手で掲げた。夫もまた、今日は私と同じくらい動いてくれていた。感謝だ。
夫は気恥ずかしくなったのか、のろのろとキッチンへ移動すると 「俺もハラ減ったなー」 と、開け放った冷蔵庫に向かって言った。
「赤いきつね食べてもいいよ」
箱で買ってあるそれを薦めたが「俺はいいよ」と断られる。
「せっかく好きで買ってるんだから、君が食べなよ」
そう言って時々黙って食べているのを知っている。でも今は黙っていることにした。
BGMにしていたテレビから知った地名が聞こえてきて、麺をすすりながら画面に視線をやる。よくある旅番組だ。子供の頃家族旅行で行ったことのある旅館が出ていた。肉も魚介も選び放題のビュッフェが売りなのは変わらないようで、懐かしさに気持ちがやや昂る。
父がこの夕飯のビュッフェで皿の上にこんもりと料理を積み上げていたのも覚えている。果たして食べ切れるのだろうかという私と母の心配をよそに何回もおかわりをしに行って、私がその食べ方を学校の男子みたいだと言ったら、父も母も笑っていた。
そうしてもう一つ思い出したことは、旅行や遠出からの帰宅後に父が必ずと言っていいほど行っていたルーティンのことだった。
緑のたぬきを食べるのだ。
父は緑のたぬきに丁寧にお湯を注ぎ 「やっぱりこれだよなあ」 と言う。
そのセリフを合図に私は父の元へ行って、口を開ける。すると父は、スープがしみてホロホロになったかき揚げと一緒に蕎麦を持ち上げ食べさせてくれるのだ。
私が成長するとそのルーティンには少し変化が加わり、父が緑のたぬきを食べるとき、私は赤いきつねを食べるようになった。そしてお互いに一口ずつ交換する。
そう。私が今赤いきつねを食べているのも、そのルーティンが由来なのだった。
どれだけ美味しいものを食べてこようと父と私がそのルーティンを行うので母には呆れられたものだったが、私にはわかっていた。
蓋を開けたときのあたたかい出汁の香りが、外で張っていた気持ちをほぐしてくれること。そうやってリラックスして食べるものの与えてくれる満足感。父子で一緒に食べるということ。すべてがとても大切だった。
丼に何やら用意して戻ってきた夫が、私にティッシュを差し出す。知らない間に溢れていた涙を、私はそれで拭いた。
「あ、母ちゃんもう食べてる!」
背後から突然聞こえた声にビクリとする。私は慌てて鼻をすすってスープを飲んだ。風呂上がりの息子が上半身裸のまま、そばへ来てあんぐりと口を開ける。小さな頃から変わらない、一口くれ、の合図だ。
「服着なさいよ」
「うん、着る着る」
そう言いつつめげずに口を開けて待つ姿は、もう高校生になったというのに幼く映る。私は揚げと麺を一緒に彼の口に運んでやった。
「あとでオレのも一口あげるから」
口を動かしながら、モソモソとしゃべる。
「お湯入れておいてやろうか」
と夫が聞くと 「お願いしまーす」 と調子の良い声が返ってくる。夫は私が買っておいた赤いきつねの入った段ボールの隣の箱から、緑のたぬきを取り出しお湯を注ぐ。
寝間着を着た息子が戻ってきて夫の隣に座った。
「明日、じいちゃんも空に行ったら、また緑のたぬき食うのかなあ」
ボソ、と小さな声で言う息子が、心底いとおしくなる。
「そうかもしれない。じゃあ棺に緑のたぬき入れてあげなきゃ」
「ばあちゃんいやがりそうだなー」
笑っているうちにキッチンタイマーが鳴って、息子が緑のたぬきの蓋をめくる。待ち構えていた湯気が、一気に立ち上った。
旅のあとには カワナミ リオ @medamayakinigomaabura
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