第95話

「それは――」


「透くんは知香さんを助けられなかったら、きっと後悔する。昔と同じ」


 そう。それはそのとおりだ。このまま知香を見捨てて、愛乃との婚約を継続するのは簡単だ。

 何もアクションを起こさなければ、いまのところ透には愛乃との平穏な同棲生活が約束されている。

 

 愛乃もそれを望んでいると思った。知香がいなくなれば、本当に二人きりだから愛乃はきっとその方が良いのだと思っていた。

 しかし。


「後悔して、自分を責めて、傷ついている透くんをわたしは見たくない。楽しそうに笑ってくれる透くんのそばにわたしはいたいから」


「だから、知香を助けてくれるの?」


「うん。わたしは透くんを独り占めしたい。でも、透くんの幸せのためなら、その願いを犠牲にしてもいいと思うの」


 愛乃の言いたいことがだんだんわかってきた。

 つまり――。


「そ、それはその……俺が知香にその……エッチなことをするのを許すってこと?」

 

 知香は透と性行為をして……究極的には妊娠することで問題の解決を図ろうとした。愛乃はそんなことを許容できるのだろうか。

 そう聞くと、愛乃はぶんぶんと首を横に振った。


「そ、それはダメ! 透くんの赤ちゃんを最初に生むのはわたしなんだから!」


 叫んでから、愛乃ははっとした表情でみるみる顔を赤くした。

 周りのカップルたちが何事かとこちらを見ている。


 愛乃はこほんと咳払いをするが、ごまかしきれていない。


「と、ともかく、本当に透くんと知香さんが赤ちゃんができるような行為をする必要はないと思うの。そこまでしなくても、これまでどおり三人で生活して、知香さんが幼馴染と恋仲だって嘘をつけば十分じゃない?」


「た、たしかに……」


 なら、知香はなんであんな過激なことをしようと思ったのだろう。

 透は考えてみた。なるべく確実な方法を取りたかったのが一つ。


 もう一つは……単純に、愛乃に抜け駆けして透とエッチな行為をしたかったのだろう。

 愛乃も同じ意見だったらしい。


 こくんとうなずく。


「知香さんもえっちでずるいよね。気持ちはわかるけど」


「ははは」


「それに、透くんを困らせていたし。わたしはそんなことしないよ?」


 くすっと愛乃が笑う。愛乃の言いたいことが透はわかった。


 知香はたしかに透のことが好きなのだろう。けれど、知香の主張はすべて自分のことしか考えていないものだった。


 それで透が困るとか、愛乃との関係とか、そういうことまで考えていたわけではない。


 一方で、愛乃は違う。愛乃は透と知香の関係まで考えて、しかも、透が一番幸せになれる方法を考えてくれた。


(愛乃さんは……別の意味でずるいな)


 もちろん悪い意味ではない。

 愛乃の言葉が、行動が、愛乃を透にとって不可欠なものにしている。


 愛乃はとても賢い子なのだと思う。

 そして、その愛乃は透のことを好きでいてくれる。


「近衛家のスキャンダルなら、マスコミの人に言えば記事にしてくれるかも。わたしと透くんと知香さんが三人で同棲しているっていえば……」


 それはもう、週刊誌の格好のネタだろう。透や愛乃はともかく、名古屋最大の財閥・近衛家次期当主の少女がいるのだから。

 そこまでしなくても、婚約相手に事情を告げるだけでも破談になる可能性はありそうだ。


「でも、どちらにしても、そんなことをしたら、俺と愛乃さんの婚約がなくなるかもしれない」


「婚約だけがすべてじゃないと思うの」


 愛乃が期待するように透を見つめる。

 そう。形だけの婚約者。それが今までの透と愛乃の関係だった。


 でも、今は……。


「愛乃さん、俺からも大事な話があるんだ」


「う、うん……」


 緊張したように愛乃が透を見つめる。

 今でも透は恐れていた。


 愛乃はどんどん透の中で大きな存在になっていく。その彼女を守れなかったら、ふたたび失ったら……。

 それでも、そんな想像よりも強い欲求があるから。


 透は深呼吸した。


「愛乃さんが言ってくれた言葉の意味、わかったんだよ」


「え?」


「ほら、Mina rakastan sinuaって言葉」


 図書室で愛乃はそんな言葉をつぶやいた。フィンランド語で、結婚したらその言葉を教えてくれると言った。


 でも、透は昨日、知ってしまった。本屋でフィンランド語の入門書を眺めていたら、載っていたのだ。


「『あなたを愛している』って意味なんだよね」


「……っ!」


 愛乃が恥ずかしそうに身悶えする。いろんな大胆なことをしていたのに、いまさら愛の告白が恥ずかしいのも不思議だけれど……。

 でも、愛乃もすぐに恥ずかしくなくなる。


 透も同じ言葉を告げるのだから。


「俺も愛乃さんのことが好きだ」


 愛乃が息を飲み、そして泣きそうな表情で笑う。


「わたしのこと、どのぐらい好き?」


「ものすごく。大好きだよ」


「嬉しい……。知香さんよりも、わたしのことが好き?」


「もちろん」


 透は即答した。透が必要としているのは、知香ではなく、愛乃だった。


「愛乃さんがいるから、俺は俺でいられるんだと思う


「わたしも、透くんがいるから、わたしはわたしでいられるんだと思うの」


 ふふっと愛乃は笑い、甘えるように透を見上げた。


「ねえ、甘やかしてほしいな」


 透はその言葉に応え、愛乃をぎゅっと抱きしめる。

 小柄な身体が、腕のなかにすっぽりと埋まる。


 愛乃は安心したように、透に体重を任せる。

 そして、ささやいた。


「これからは、わたしたち……恋人同士なんだよね?」


「そうだね。次は……」


「夫婦、だよね」


 愛乃はそう言うと、くすくすっと笑った。

 こうして、透と愛乃は「婚約者」から「彼氏彼女」になった。






<あとがき>

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