第40話 愛乃の提案

「キスをしてくれたら、本当に少女漫画みたいだなって思ったの……」


 愛乃の言葉に、透はその小さな赤い唇に目を引き寄せられる。

 まだキスは一度もしていない。

 

 そんな覚悟は透にはなかったはずだ。

 でも、愛乃はきっとそれを望んでいる。


 透が一歩踏み込むと、愛乃はどきりとした表情を浮かべ、そして、ぎゅっと目をつぶった。


「と、透くん……」


 透が愛乃の肩を軽く抱くと、愛乃は透を受け入れるように体から力を抜いて、透に身を委ねた。


 本当にこのままだとキスしてしまう。でも、透は止まることができなかった。


 そして、透と愛乃の唇は触れ合う直前まで近づき……。

 

 そのとき、きれいに澄んだ声がした。


「へえ、家に帰った途端に発情して、そういうことをしちゃうわけ?」


 透と愛乃がびっくりして固まり、そして、玄関のドアを振り返ると、そこには近衛知香がいた。

 知香は頬を膨らませて、透たちを睨んでいる。


 慌てて透は、愛乃をそっと放し、知香に向き直る。愛乃が後ろから「あと少しだったのに……」と小さな声でつぶやいていた。


「どうしてここに近衛さんがいるのかな?」


「決まっているでしょう? あなたたちと同じ家に住むって言ったじゃない。護衛の人たちは外からこの家を見張ってくれているし、私の警護の問題もないし」


「……本当にそんなことしていいの?」


「私は昔の私とは違うの。近衛家のなかで、ある程度はわがままを通すこともできるんだから」


「わがままって自分で認めるんだね」


 透が小声で言うと、知香が不機嫌そうに透を黒い瞳で見つめる。


「私にとっては大事なことなの。あなたたちのことを見張っていないと、透が発情してリュティさんを妊娠させちゃうでしょう」


 そんなことしないよ、と言おうと透が思ったら、横から愛乃が口をはさむ。


「発情、発情って言ってるけど、発情しているのは、近衛さんの方じゃないの?」


「ばっ、馬鹿じゃないの!? わ、私が透相手に発情なんて、そんなことするわけない!」


「ふーん。そうかな。わたしと透くんがキスしようとしたのを見て、すごく焦ったでしょ?」


 図星なのか、知香は頬を赤らめて「そっ、それは……っ」となにかを言いかけ、黙ってしまう。


「学校でも言ったけど、本当は近衛さんも透くんとそういうことしたいんでしょう?」


「だから違うってば!」


「そういえば、この家ってベッドが一つしかないんだよね?」


 愛乃がいたずらっぽく、宝石のような瞳を輝かせる。

 透と知香は顔を見合わせた。


 知香がおずおずと透に尋ねる。

 

「そ、そうなの?」


「まあ、うん。つまり、近衛さんは……」


 寝る場所がない。


 いつも用意周到な知香にしては珍しく、この家のことを調べて来なかったらしい。

 近衛家が用意した家なのだから、事前に知ることもできたはずなのに。


(いや、今日いきなりこの家に住むって言い出したし、焦ってたみたいだし、仕方ないのか……)


 だけど、困ったことになった。

 でも、愛乃はそうは思わなかったらしい。


「近衛さんもよかったら、わたしと透くんと一緒のベッドで寝てみる?」


「え!?」


「そうすればベッドが足りないのは解決できるよ? それに、お風呂も三人で一緒に入る?」


 愛乃の内心が読めない。どうしてそんな提案をするのだろう?

 知香も同じみたいで、顔を赤くしてうろたえていた。


「そ、そんなハレンチなことできるわけないわ」


「ふうん、いいの? わたしと透くんのこと、監視するんでしょう? わたしと透くんが二人きりで同じベッドで寝たり、裸で一緒にお風呂に入ったりするのは嫌じゃない?」


「も、もちろんダメに決まってるけど……」


「なら、決まりだね」


 愛乃のとんでもない提案を、知香が受け入れるはずないと思っていた。

 同じベッドで眠るのも、一緒のお風呂に入るのも、嫌いな元婚約者とするはずがない。


 だが、知香は恥ずかしそうに目を伏せると、「わ、わかったわ……あ、あなたたちを監視しないといけないものね」と小さく言う。


「あ、愛乃さん……どういうつもり?」


 透が戸惑って、愛乃に小声で話しかけると、愛乃は楽しそうに微笑み返した。


「大丈夫。わたしに考えがあるの」


 そう言って、愛乃は自信満々にえへんと胸を張ってみせた。

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