第三章 愛乃と透の同棲生活

第19話 婚約者と秘書と

「すごい……。大きなお屋敷だね!」


 愛乃のはしゃいだような明るい声に、思わず透の頬も緩む。愛乃は普段どおりのブレザーの制服姿だけれど、とても可愛い。

 

 とはいえ、透ははしゃぐどころではなく、緊張と恐怖で身がすくみそうだった。近衛家の人間と会うからだ。


 二人の目の前には、近衛家の屋敷があった。巨大な和風の黒門は、透たちを威圧するようにそびえ立っている。


 近衛家は、名古屋の巨大企業グループの経営者一族であり、そして、透の母の生まれた家でもある。


 嫡流の近衛知香は、透の幼馴染だったし、かつては婚約者でもあった。両親が離婚した後の数年間、この屋敷に住んでいたこともある。


 けれど、知香との婚約は破棄され、そして透は近衛家から追い出された。

 知香を守ることができなかった透は、見捨てられたのだ。


 生まれたときから、透は近衛家に支配されていた。透は思い知らされ、そして、近衛家を恐れ、近づかなくなった。


 けれど、今、こうして愛乃と近衛家を訪れている。


 もちろん、透と愛乃の婚約にまつわるいろいろな手続のためだ。

 近衛家の意向による婚約なのだから、近衛家の人間と調整する必要がある。


 といっても、法律上、婚約自体は、透と愛乃の二人の意思表示で成立してしまうらしい。


 近衛家の秘書の冬華が教えてくれた。


「不思議だよね。わたしと連城くんは、もう婚約者なんだ」


 ふふっと愛乃は楽しそうに笑う。その笑顔がとても可愛くて、透は思わず見とれ、そして、はっとした。


「ええと、とりあえず屋敷に入ろうか」


「……連城くん、もしかして、照れてる?」


「そ、そんなことないよ」


「ふうん」


 愛乃は上目遣いに透を見つめた。


 透はいたたまれなくなって、歩き出す。一方の愛乃は、ちょっと嬉しそうな表情で、透の後をついてきた。


 屋敷に入ると、応接室で秘書で透の後見人の時枝冬華が出迎えてくれた。


 玄関は日本家屋だったけれど、この応接室は洋風だ。


 大正時代に作られたこの巨大な屋敷は、日本屋敷と日本庭園に加えて、洋館も備えている。

 応接室はヴィクトリア朝風の豪華な作りで、大きなシャンデリアが輝き、高そうな赤い長椅子がある。


 冬華はその下座側の長椅子に腰掛けていたけれど、透たちを見ると、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。


「いらっしゃいー、透くんー。久しぶりだねー。というか久しぶりすぎるよ、もっと会いに来てくれてもいいのにー」


 冬華は間延びした、けれど、綺麗な柔らかい声でそう言った。


 透とは昔から知っている仲だけれど、改めて見ると、冬華は本当に美人だ。

 すらりとした長身で、モデルのような体型だった。長い髪を茶色につややかに染めている。


 黒いパンツスーツがばっちりと似合っていて、スタイルの良さを引き立てている。


「すごい美人……」


 隣の愛乃も、ちょっと気圧されたようにつぶやいている。愛乃も学校一の美少女だけれど、冬華は高校生にはない、大人っぽさのあるカッコいい美人だった。


 ただし、それは黙っていればのこと。話し始めると、にへらにへらとしたふやけた笑顔もあいまって、とても崩れた雰囲気になる。


 それでも迫力のある美人なのが冬華のすごいところだし、話しやすいタイプでもあるのだけれど。


「ご無沙汰しています、冬華さん。といってもついこないだ、うちに来たじゃないですか」


 透も一人暮らしをしているけれど、未成年だ。だから、後見人代わりの冬華がときどき近衛家の代理で様子を見に来る。


 ぽんと冬華は手を打つ。


「そうそう。遊びに行ったね」


「遊びだったんですか……」


「あれ、つい本音が。透くんは、可愛いもの」


 ふふっと冬華が笑う。


「か、からかうのはやめてください」


「からかっているつもりはないんだけど」


 同じ言葉を、最近も誰かに言われたような気がする。

 それはさておき、冬華は透のことを弟のように扱ってくれている。


 透にとって、数少ない信頼できる相手でもあった。


 冬華が一歩、透に近づく。

 そして、急にぎゅっと抱きしめられた。透はどきりとする。すぐ近くに、冬華の顔が間近にあった。


「ふ、冬華さん……な、なにしてるんですか?」


「昔もこうやって抱きしめてあげたじゃないー」


「そ、そうですけど……」


 たしかに冬華は幼い頃から透を可愛がってくれていて、ハグしたりもときどきする。男としては見られていないということかもしれないけれど、悪い気はしなかった。


 だが、愛乃の目の前でそんなことをされるのは困る。


 冬華の柔らかい大きな胸が当たっていることに気づき、透は自分の頬が熱くなるのを感じた。

 ちらりと、愛乃を見ると、愛乃はむうっと頬を膨らませている。


 透は慌てた。


「冬華さん……あの……えっと……」


「恥ずかしがらなくていいのに」


「りゅ、リュティさんも見ていますから……」


 早口で透が言うと、冬華はきょとんとした顔で、それからくすっと笑った。

 ようやく冬華は、透を放すと、一歩後ろに下がり、そしてよそ行きの整った表情を浮かべた。

 

「はじめまして、愛乃・リュティさん。あたしが近衛家の秘書の時枝冬華です」


「え、えっと……あの、時枝さんは、連城くんとはどういう関係なんですか?」


「気になる?」


「はい。だって……わたしは連城くんの婚約者ですから」


 愛乃は、白い頬を赤くして、青い瞳でまっすぐに冬華を見つめていた。









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