第18話 Mina rakastan sinua
愛乃の言葉に透はどう答えればよいのか、迷った。結婚してほしい、ともう五回も同じことを繰り返されている。
透には愛乃のことを拒絶することもできる。強い言葉で愛乃の願いを否定すれば、愛乃はきっと、同じことを繰り返さないだろう。
(そうできないのは、どうしてだろう……?)
きっと、愛乃の提案にうなずきかけているからだ。
透は愛乃に「結婚してほしい」と何度も言われて、嫌になるどころか、それを嬉しく思っている自分がいることに気づいた。
それは学校一の美少女から、そんなことを言われれば、男なら誰でも少しは嬉しく思ってしまうと思う。
けれど、それだけだろうか?
愛乃と婚約することに、透にとってメリットはない。
婚約は近衛本家の意向ではあるが、それは半強制的に従わされるだけだ。
(でも、仮に近衛家が、婚約しろと言わなかったとしても……)
透は愛乃のお願いを聞いてしまうかもしれなかった。
愛乃は困っている。どうしようもない家の事情で、どこの誰とも知らない男と結婚させられそうになっていた。
そんな愛乃を、透は救うことができる。
目の前の小柄な少女は、透のことを必要としている。
そして、透はそれに応えたいという気持ちを抑えられなかった。それは幼馴染の知香を助けられなかったことの代償行為なのかもしれない。
愛乃は首をかしげる。
「黙っちゃって、どうしたの? 考え事?」
「ああ、まあね」
愛乃はいたずらっぽい笑顔を浮かべた。その表情の意味がわからず、透は一瞬戸惑い……。
それから、はっとした。
さっきまで読んでいて、隠したはずの本がない!
いつのまにか、愛乃はその本を手にとっていた。
「へえ……」
愛乃がしげしげと眺めているそのソフトカバーの本は、『フィンランドを知るための本』という書名だった。
(しまった……)
愛乃はフィンランド出身だ。だから、その本を手にとったわけだけれど、知られると恥ずかしいから隠しておくはずだったのに。
すっかり本の存在を忘れていて、愛乃がいつのまにか本を奪ってしまっていた。
透は愛乃の反応が心配になった。愛乃からしてみれば、気味が悪かったりしないだろうか。
けれど、愛乃は少し頬を赤くすると、照れたように透を見つめた。
「わたしがフィンランド人だから、読んでたの?」
「純粋に外国の事情に興味があって……と言ったら信じる?」
「信じない」
くすっと愛乃は笑った。
「わたしのことを知りたいと思ってくれたんだ?」
「まあ、うん、そうかもしれない」
「そうなんだ……。べ、べつに嬉しいわけじゃないんだけれど」
明らかに嬉しそうににやけた顔で、愛乃が言う。
(わかりやすいなあ)
愛乃がこんなに表情豊かな子だとは、透は知らなかった。
いつも教室で一人でいたときの愛乃は、冷たい表情をしているように思えたけれど、あれは寂しかったのかも知れない。
「連城くんは知ってる? フィンランドって離婚率が日本よりずっと高いの」
「知らなかった。意外な気がする」
フィンランド、というより北欧の国には全体的に良いイメージがある。冷たく厳しい日本社会とは違って、福祉も充実していて、教育も素晴らしい豊かな国。そういうふうに、ニュースではときどき目にする。
愛乃は微笑む。
「フィンランドも普通の国だよ。わたしのお父さんとお母さんもね、離婚してるの」
透は驚いた。透の両親も同じように離婚している。
「でも、わたしと連城くんは、結婚したら仲良くやっていけるような気がする」
「そうかな」
「そうだよ」
愛乃の自信がどこから来るのか、透にはわからなかった。
透には、そんな未来のことはわからなかった。
そもそも順番が逆転している。今の透と愛乃の間にはなにもない。恋愛感情があるわけではないし、まして夫婦愛のようなものがあるわけでもない。
仮に本当に愛乃と結婚したとき、上手くやっていけるかどうかなんて、わかるわけがない。
それでも、愛乃は透を不思議と信頼しているようだった。愛乃はぱたんと本を閉じ、そして透を見つめた。
「わたしの名前の愛乃ってね、アルファベットではAinoって書くの」
「へえ、なにか由来があるの?」
「アイノは、フィンランドの神話に登場する水の乙女のことなんだって。土地で一番の美少女で、母親の命令で、年老いた神様と婚約させられるの。アイノは泣いて嫌がったけど……誰も助けてくれなかった」
透は驚きのあまり、愛乃をまじまじと見つめ返した。愛乃も母親の手で婚約させられそうになっている。
そっくりだ。
「それで、そのアイノはどうなるの?」
「湖に身を投げて……死んでしまうの。有名な悲劇なんだって。でもね、わたしは違うよ」
愛乃は静かに言い、透をまっすぐに青い瞳で見つめ返した。
その瞳は、どこまでも純粋に澄んでいて……透にすがるように、期待するように、不思議な色で輝いていた。
「わたしには連城くんがいるもの。神話にはいなかったヒーローが、わたしにはいるの」
「俺は……ヒーローなんかにはなれないよ。幼馴染の女の子一人助けられない弱い人間だ」
愛乃はふるふると首を横に振り、そして優しい笑みを浮かべた。
「連城くんはわたしを助けられるよ。だから、自分をそんなふうに言わないで。わたしも弱い人間だけど、でも、連城くんの力になれるように努力するから」
「ありがとう。でも……」
「二人でいれば、きっと弱くなんかないと思うの」
愛乃は、頬を赤くして、でもはっきりとした声でそう言った。
それはほとんど告白のように、透には聞こえた。
愛乃は胸の前で手を組み、さらに言葉を重ねた。
「わたしと結婚してほしいの!」
愛乃は瞳をきらきらと輝かせ、透に迫った。
愛乃からこの言葉を告げられるのは、もう六度目になる。
そして、透の返事は決まっている。そのはずだ。
でも、透は動揺していた。日本の法律では16歳では結婚できない。そんな無意味なことを透は口走る。
それは結論の先延ばしだ。
愛乃はいたずらっぽく微笑んだ。
「だから、婚約者になってほしいと言っているんでしょう? 連城くんは形だけの婚約者になるだけ。それでいいの」
愛乃はささやいた。そう。婚約は、透と愛乃の二人のあいだに恋愛感情があるからではない。
ただ、それが二人にとって現実的な選択肢だからというにすぎない。
形だけの婚約者。そのはずだ。それは透にとって、愛乃の提案を受け入れる言い訳になった。
近衛家の意向に従うため、愛乃を救うため、仕方のないことだと納得できる。
でも、目の前で、顔を真っ赤にして恥じらう愛乃は……本当に形だけの婚約者でいいと思っているんだろうか?
仮にそうだとしても、透はそういうふうに割り切ることができるんだろうか? 提案を受け入れれば、透はこの先も愛乃と一緒にいることになる。
透は愛乃を助け、愛乃は透を支える。婚約したら、そうすると二人は約束した。
そして、婚約がそのまま生き続ければ、透は愛乃と結婚することになる。そのとき、透にとって、愛乃は他人ではなくなっている。
もし、愛乃がかつての知香のように、透にとって失ってはならない存在になったとすれば。
それは透にとって恐ろしいことだった。失うことに怯えるのは、もう嫌だ。
けれど、目の前の愛乃が差し出す手を、振り払うこともできなかった。助けを求める少女を、平気で見捨てられるほど、透は強くない。
(大丈夫。あくまで形だけの婚約者なんだから……)
透は自分に言い聞かせた。そして、愛乃に向き合う。
「いま決めることにするよ」
愛乃はびくっと震え、不安そうに瞳を揺らした。拒絶されるかもしれない、と思っているのだろう。
でも、透の答はもう決まっていた。
「リュティさんの婚約者になるよ」
「ほ、本当に!?」
「ああ。もちろん、他の手段で問題が解決できそうになれば、そうしよう。そして、婚約は解消する。あくまで形だけの婚約者なんだから」
「でも、そうならない限りは、わたしが連城くんの婚約者なんだね。嬉しい……ありがとう」
愛乃は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。思わず、透はその笑顔に引き込まれる。
予感がする。
このまま、きっと透は愛乃にさらに深く関わることになる。そして、引き返せないことになるだろう。
わかっていても、透は愛乃を拒めなかった。
愛乃に必要とされることを、誰かに必要とされることを、透は求めていた。
愛乃はふふっと笑う。窓から差し込む夕日が、愛乃の美しい金色の髪を照らし出す。そして、愛乃は透の耳元に、小さな唇を近づけた。
「Mina rakastan sinua」
その言葉を、透は聞き取れなかった。フィンランド語……だろうか?
透は愛乃が何を言ったのか、気になる。けれど、透が尋ねると、愛乃は首を横に振った。
愛乃は一歩身を引き、そして人差し指を唇に当てた。
「なんて言ったかは、内緒。別に深い意味はないの。でも……いつかは教えてあげる」
「いつかって、いつ?」
「わたしと結婚したら」
愛乃はそう言って、女神のような美しい笑みを浮かべた。
【★読者の皆様へ 大切なお知らせ】
以上で第一部は完結です。第二部からはいよいよ婚約者との溺愛同棲生活のスタート!! 知香・近衛家との対決などイベント盛りだくさん!
第一部をお読みになって
「面白かった!」
「愛乃たちが可愛かった!」
「第二部も楽しみにしている!!」
と思っていただけたら、
作品情報ページの
【☆☆☆】の左の+ボタンをクリックして応援いただけるとととても嬉しいです! 最大で3回(=☆3つ分)まで+ボタンはクリックできます!
何卒、ご協力をお願いいたします!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます