第二章 婚約への道
第10話 近衛本家の思惑
放課後。
透は愛乃と一緒に、喫茶店にいた。
愛乃は白い頬を赤くして、きょろきょろと周りを見回していた。
男子と二人きりで喫茶店にいるというシチュエーションが、恥ずかしいのかもしれない。
けれど、その必要が生じたのは、愛乃が原因だった。
昼休みの知香との遭遇は大変だったのだ。
愛乃が透に「婚約者になってほしいの」と言った後、知香は顔を青くしていた。
知香は、中学生になってから完璧超人で通している。どんなときも誰にも負けていない。
その知香が、ここまでうろたえるのは珍しい。「打倒近衛知香!」に燃える明日夏に見せたら喜んだと思う。
知香は「そんなこと、できるわけないじゃない」とつぶやいた。続けて何か言おうとした様子だったけれど、他の生徒会役員が近づいてきたことに気がついて、透たちを睨むと、足早に颯爽と去っていってしまった。
会話の内容まではわからなくても、透・愛乃と知香が揉めているのは、周囲から見てもわかったようだ。
愛乃に婚約者発言の真意を問おうにも、大勢に注目された状態では困る。
ということで、透から提案して、放課後に喫茶店へ来たというわけだ。
二人が入ったのは、学校から離れた名古屋駅のユニモール地下街にある喫茶店チェーンだ。だから、学校の知り合いがいる可能性も低い。
テーブル席に向かい合って座る。赤いふかふかのソファが心地よい。
愛乃はソフトクリーム付きのアイスココアを頼んだ。
透は思わず微笑む。
「甘いもの、好きなんだ?」
「べ、べつにそういうわけじゃっ……ない。このぐらい誰でも頼むでしょ?」
愛乃は言って、それから恥ずかしそうにうつむき、小声で言う。
「本当は甘いもの、好きなの」
「恥ずかしがるようなことじゃないと思うけど。俺も甘いもの好きだし」
「そうなの?」
愛乃は、ちょっと嬉しそうに微笑んだ。
透は言ってから、自分は何を頼もうと考えていると、女性の店員がやってくる。
愛乃は見上げると、店員に向かって「ソフトクリーム付きのアイスココアを……二つお願いします」と言った。
透がびっくりして、愛乃を見ると、小声で「同じものじゃダメ?」と聞かれた。
べつにソフトクリームもココアも嫌いではないので(というよりむしろ好物なので)透は、「まあ、いっか」とうなずいた。
すらりとした美人の女性店員は、透たちの会話を聞いて、微笑ましそうに見つめ、それから「かしこまりました」と言って去って行った。
「なんか……デートみたいだね」
愛乃は頬をほころばせてつぶやいて、そして、はっと口を手で抑える。
「べ、べつに連城くんとデートしたいってわけじゃないからね?」
「こんなところに呼び出して悪かったよ」
「さ、誘ってくれたのは嬉しかったけれど……」
消え入るような声で、愛乃は言う。
少なくとも、ここで愛乃と会っているのはデートではない。
愛乃の目的を聞き出すためだ。
「単刀直入に聞くけど、俺を婚約者にするって言ってたのは、どうして?」
知香を困らせるための嘘だったら、それはそれでよいのだけれど、この気弱な愛乃がそこまでするだろうか?
愛乃に尋ねてみると、案の定、愛乃はふるふると首を横に振った。
「あ、あれは本気なの……。連城くんをお昼に誘ったのも、本当はそのため」
「なるほどね。一つ謎は解けたけど、もっと大きな謎ができたな。どうして俺なの?」
純粋に疑問だった。透と愛乃はこれまでさして親しいわけではなかった。
他に愛乃に親しい男子生徒がいるというわけではなさそうだけれど、ほとんど見ず知らずの他人に婚約を頼むなんて、普通ではない。
愛乃はこくこくとうなずいた。
「近衛さんが……連城くんの悪口を言うから、勢いで婚約者になってなんて言ったけれど、説明不足だよね」
おそらく透が短い人生のなかで出会った出来事のなかで、一番説明不足な出来事だった。
もっとも理由は絞られるとは思うけれど。
「形だけでも、婚約者がいないと困る理由があるんだよね? 誰かと結婚させられそうになっているとか?」
愛乃がびっくりした様子で目を丸くする。図星なんだろう。
「どうしてわかったの?」
「他に理由がないからね」
もし愛乃が透に好意を持っているとしても、いきなり「婚約者になって」なんて言わないだろう。
透の側に、なにか婚約者にするメリットがあるとも思えない。
正確には、透と近衛家との深い関係を考えれば、メリットは皆無ではないと思う。
ただ、愛乃は透と近衛家の関係を知らないようだった。透と知香が元婚約者だと知って、愛乃は驚いていたし、それが演技だとは思えなかった。
そうだとすれば、愛乃が形だけでも婚約者を必要とする理由があると考えるのが妥当だ。
婚約者が必要という特殊な事情の理由は限られてくる。たとえば、意に沿わない結婚を強いられそうになっているというのは、比較的ありそうな話だ。
というわけで、口にした推論がたまたま当たったにすぎない。
愛乃は感心した様子で、「そうなの」とうなずく。
「あまり話せないんだけど……わたしがフィンランドの生まれだってことは知ってるよね?」
「まあ、それは、うん」
それは知っているけれど、フィンランドといっても、透には、スウェーデンの東、ロシアの西にある国という程度の知識しかない。
「わたしのお母さんは、フィンランドの会社の日本法人……日本での支店みたいなものの代表なの」
そういえば、愛乃はフィンランドの財閥の令嬢だとも聞いた。母親もその財閥の経営者一族のようだ。
だから、知香と同じぐらいお嬢様なのかもしれない。
「ただ、その会社がずっと赤字続きで……フィンランド本社からの支援も断られちゃって。だから、日本の大きな会社に建て直しのための資金援助を受けようとしたんだけれど……」
その会社の社長は、条件を提示した。愛乃の母の会社の経営再建を支援する。代わりに、社長の親族と、愛乃のあいだに婚約を成立させること。
そんな時代錯誤な提案を、相手はしてきたらしい。
理不尽な話だと思う。愛乃が嫌がるのも、当然だ。
問題は、愛乃の母がその提案に乗り気なことだった。
愛乃はうつむく。
「お母さんはね、わたしのことなんてどうでもいいの。自分の会社のことしか考えていないもの」
「だから、俺を婚約者にして、その提案を断りたい?」
愛乃はうなずいた。
「もう婚約者がいるところを見せれば、相手も納得すると思うの」
「でも、そんな手が通用するかどうか……」
未成年の婚姻には、親の同意が必要なはずだけれど、婚約はどうなのだろう? 透にはわからなかった。
「お願い! 形だけの婚約者でいいの。期間限定だし、迷惑はかけないから」
「……どうして、俺なの? 他に男はいくらでもいると思うけれど」
透はそう問いかけてみた。愛乃が婚約者を必要とする理由はわかったけれど、最初の質問の答がまだだ。
どうして、透なのか?
愛乃はうつむいた。
「だって……連城くんは優しいし」
「そうかな」
「わたしの弱みにつけこんで、変なことしたりしなさそうだし」
「するかもしれないよ?」
「そ、そうなの?」
愛乃は顔を赤くして、真面目な表情で透を見つめる。
透は肩をすくめた。
「しないけれどね」
「と、とにかく、わたしには連城くんが必要なの。……連城くん以外には頼れる人はいないし」
上目遣いで見つめられ、透は迷った。
こんな可愛い子から頼られて、悪い気はしない。
愛乃は、知香に向かって、透のために言い返してくれた。できるなら、力になりたいとも思う。
けれど、本当に透が手助けすることができるのだろうか。愛乃の提案は非現実的なものに思えた。
なにより、透よりも、もっと効果的に、愛乃のことを助けられる人がいるような気がする。
まだ未成年の透と愛乃に、何ができるというのだろう?
「まだ、提案を受けるかどうかを考える時間はあるんだよね?
「えっと……うん」
「それまで、他の手段でなんとかできないか考えてみてよ。あと、俺以外の婚約者候補も探した方がいいと思う。俺は、たまたま怪我をしそうになったリュティさんを助けただけだし」
愛乃は口をぱくぱくとさせて、なにか言いたそうにしていた。
でも、愛乃はその言葉を飲み込んだようだった。
代わりに、ささやくように言う。
「もし、他に方法がなかったら……連城くんはわたしの力になってくれる?」
透は一瞬、迷った。でも、答は一つしかない。
「もちろん。可能な限り、リュティさんの力になるよ」
ぱっと愛乃の表情が明るくなり、青い瞳をきらきらと輝かせる。その顔はとても嬉しそうで、見ているだけで引き込まれそうになる。
いつのまにか、透は愛乃に深く関わることになっていた。こんなはずではなかったのに。
ともかく、透も、他の解決策がないかを探すことにした。必要なのは情報だ。
「リュティさんのお母さんの会社を助けようとしているのって、なんて名前の会社?」
部外者の透が聞くべき情報ではないかもしれないけれど、やむを得ない。
けれど、愛乃から会社名を聞いた時、透は自分がまったく無関係とは言い切れない事に気づいた。
「リュティさん……その会社……」
「会社がどうしたの?」
「近衛グループの会社だ」
つまり、透の、そして知香の一族が経営している会社ということになる。
となれば、愛乃が婚約させられそうになっている男は、近衛家の親族の誰かということになる。
いったい誰だろう? 透も知っている誰かだとは思うけれど……。愛乃にたずねてみたが、名前を知らないようだった。
となれば、透が自分で確認するしかない。
「リュティさん、少し席を外していい?」
「いいけど、どうしたの?」
「近衛本家に電話して確認してみるよ」
透はそう言うと、店外に出た。そして、地下街の通路の隅で、スマホを取り出す。
かける相手は、透と近衛本家のあいだの連絡役だ。
ワンコールもしないうちに、相手は電話に出た。
「やっほー、透くん。あまり電話してくれなかったから、お姉さん寂しかったなー」
おそろしく軽い雰囲気の女性の声がする。透はくすっと笑った。
「冬華さんはお元気そうで何よりです」
時枝冬華は、近衛家の女性秘書だ。二十代後半のかっこいい雰囲気の女性だが、かっこいいのは外見だけで、中身は相当いい加減だ。
冬華は近衛本家に住み込みで仕えている。透と近衛本家の連絡も任されていて、実質的には透の後見人でもある。
本家の人間で、唯一透に親切にしてくれる人間でもあり、感謝している。気安い相手だから、愛乃の婚約者に誰が予定されているかも、質問することができる。
とはいえ、いきなり本題を切り出すのはまずい。
「冬華さんにお聞きしたいことがあって」
透はどうやって聞き出そうかと考えながら、前置きをした。けれど、その心配は無用だった。
冬華は「えへへ」と大人とは思えない笑い声を上げる。
「このタイミングで電話してくるってことは、あのことしかないよね。お知らせするのが遅くなってごめんねー」
「あのこと?」
「またまた、とぼけちゃって。クラスメイトの愛乃・リュティさん本人から聞いたんじゃないの?」
へらへらとした冬華の調子に、透はとても嫌な予感がした。どうして、冬華が愛乃のことを知っているのか。
底抜けに明るい声で、冬華は言葉を続ける。
「金髪碧眼の美少女が婚約者なんて、透くんもラッキーだね」
「あー、それはつまり……」
「近衛本家は、透くんを愛乃・リュティさんの婚約者にするつもりだよ?」
冬華は、電話越しに楽しそうな声でそう告げた。
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