第6話 透の選択
教室が、波を打ったようにシーンと静まり返った。
あの愛乃・リュティが、透に対して、昼食を一緒に食べないかと提案している。
愛乃といえば、孤高の存在で、教室はいつも一人でいたし、男子はもちろん女子とも仲良くご飯を食べている姿なんて見たことはない。
それが、唐突に、目立たないクラスメイトの男子に「一緒、ご飯食べない?」と誘えば、注目を集めて当然だ。
目の前の愛乃は、ぷるぷると震えて、頬を赤くしている。
(こ、これは困った……)
どういう風の吹き回しなのかわからないけれど、ともかく目の前の愛乃が突拍子もない行動に出たことはたしかだ。
おかげで、かつてないほど透は注目を集めてしまっている。
ただでさえ、明日夏と話していたことで、男子から睨まれていたのに、そこに愛乃も加わって、今や針のむしろと化しているような気さえする。
「だ、ダメ?」
上目遣いに愛乃が言う。その青い綺麗な瞳に、思わず引き込まれそうになり、はっとする。
透の頭の中で、警報音が鳴った。
ここで選択に失敗すると大変なことになりそうだ。
どう答えたものか、と判断に迷っていると、その隙に横から明日夏が口をはさむ。
「リュティさんって、連城と仲が良かったんだ?」
愛乃は困ったように、小さな手を組んでもじもじさせる。
「そういうわけじゃないけれど、昨日、連城くんに助けてもらったから」
「助けた?」
オウム返しに明日夏は言い、それから、透を睨んだ。
良かれと思って、昨日、透が愛乃を本屋で助けたことは黙っていた。それが裏目に出てしまった。
透は冷や汗をかき、そして観念した。
「本屋でリュティさんに会ってね。棚の本を取るのに協力しただけだよ」
「……リュティさんと何もなかったって言ったのに、あたしに嘘をついたんだ」
明日夏が頬を膨らませて、透をジト目で睨む。結果的に、嘘をついたのは事実だ。
透は明日夏に手を合わせた。
「ごめん。大したことじゃなかったし、リュティさんの許可なくペラペラ喋るのも良くないかと思ったんだよ」
「それなら……仕方ないかもだけど……」
明日夏は歯切れ悪くそう言った。ただ、ともかく明日夏の怒りが和らいだのはたしかだ。
透はほっとした。
ところが、そこに愛乃が爆弾を落とし込む。
「連城くんには、本を取ってもらっただけじゃないの。踏み台から落ちそうになったわたしを抱きとめてもらったの」
「へえ、連城が抱きとめた……」
はにかんだように言う愛乃に対し、明日夏が小さくつぶやく。
周囲がざわつく。
事態は解決とは逆方向に向かっていて、ますます注目を集めている。
「それでね、連城くんにお礼がしたいなって思ったの」
「お礼だなんて、べつにいいよ。そんな大したことしていないし」
透は柔らかい口調で、そう言ってみる。
意外と内気な愛乃なら、これで引き下がってくれるかもしれない。
ところが、予想は外れた。
「連城くんは良くても、わたしの気が済まないの。お昼ごはん、学食の一番高いのを奢るから」
愛乃は、綺麗な声で言い切った。
さて、どうしようか? 愛乃の意思は固いようだ。
とはいえ、先約があるといえば、さすがの愛乃も引き下がるだろう。
実際には誰かとお昼を食べる予定なんてないけれど、嘘も方便という。
愛乃みたいな特別な美少女と関わっても良いことはない。断ってしまうのが、賢い選択だ。
けれど……。
透は目の前の愛乃を見る。愛乃は不安そうに、透を見つめ返した。愛乃の細い足は、小さく震えている。
きっと透を誘うのに、勇気を振り絞ったんだろう。孤高の女神は、実際には気弱で内気で、人付き合いの下手な女の子なのかもしれない。
そう思ったとき、嘘で愛乃の誘いを断るのは……間違ったことだと透は思った。
たしかに、今の透は無気力だ。自分に自信はないし、平穏な日常を望み、面倒事を避けたい。
けれど、ここで嘘をついて、愛乃を拒絶すれば、もっと自分のことを嫌いになる。
そんな気がした。
「学食を奢ってもらうほどのことはしていないけど、じゃあ、食後のコーヒーでも自販機で買ってもらおうかな」
「一緒にご飯行ってくれるの?」
きらきらと目を輝かせ、愛乃が言う。
不覚にもどきりとする。
可愛い少女が、そんな嬉しそうな顔をするのは反則だ。破壊力が高い。
透は目をそらし、「まあね」とつぶやいて、うなずいた。
(大丈夫……のはずだ)
これはただの昨日の礼にすぎない。これをきっかけに、愛乃と深く関わることはないはずだ。
人慣れしていて対人スキルの高そうな明日夏と違って、愛乃はどこか危うい印象を受ける。
それが愛乃を神秘的な孤高の女神としているのだろうけれど、透にとっては不安材料だった。
愛乃と深く関わることで、彼女を傷つけ、自分に失望するかもしれない。考えすぎかもしれないが、そんな事態が起きることを透は恐れていた。
幼馴染の知香のときのように。、
「良かった」
愛乃は、そうつぶやいて微笑んだ。
それから、少し顔を赤くする。
「べつに、連城くんとご飯を一緒に食べたかったわけじゃなくて、これはただのお礼なんだからね?」
「わかっているよ」
「嬉しくなんて、全然ないんだから」
そう言いながらも、愛乃は恥ずかしそうに目を伏せた。
愛乃の本音が、言葉とは裏腹だと透も気づいていた。ツンデレというのかもしれない。
どういうわけか、透は愛乃に気に入られたようだけれど、それは、昨日のことだけが理由なんだろうか。
あるいは、他にもなにか理由があるんだろうか。
透は考えたけれど、これまで愛乃と話したことは数えるほどしかないはずだった。
ふと顔を上げると、明日夏がご機嫌斜めという顔で、透を睨んでいる。
「リュティさんは嬉しくなくても、連城にとっては嬉しいでしょう? こんな可愛い子とご飯を一緒に食べられるんだから」
「たいていの男子なら、たしかに喜ぶだろうね」
「連城も『たいていの男子』の一人でしょう?」
「そうだね。そのとおりだ」
否定する方がかえって面倒なことになる。透は苦笑いしてうなずいた。
明日夏は「ふーん」とジト目で透を見たが、対照的に、愛乃は嬉しそうだった。
「そっか。連城くんは……嬉しいんだ」
弾むような声で愛乃はそう言う。そして、サファイアのような瞳を輝かせ、透を見つめた。
思えば、これが分水嶺だったと透は思う。このとき、愛乃を拒絶していれば、その後の状況は変わっていただろう。
少なくとも、愛乃・リュティの婚約者になるなんていう不測の事態は起きなかったはずだ。
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