第3話 素直なツンデレ
「透くん、だよね?」
愛乃は綺麗な声でそう言った。
下の名前を覚えていたのか、透は驚いた。そして、「透くん」と名前を呼ばれて、くすぐったい気持ちになる。
下の名前を呼ばれるなんて、かなり久しぶりだ。家族もいなければ、親しい友人もいないから。
幼馴染の知香も、今は透のことを名前では呼ばない。
自分は女の子を抱きしめている。たとえ、本屋の踏み台から落ちてきた女の子を助けたという経緯があっても、状況としては、女の子を背後から抱きしめていることに変わりはない。
急に、透はそのことを意識し始めた。
それは愛乃も同じようだった。愛乃は頬を赤くして、そして、透を睨む。
「……離してよ」
「ご、ごめん」
透は慌てて、愛乃から離れようとした。とはいえ、倒れてきた愛乃は、透に寄りかかるような体勢だから立っていられるという状態だ。
このままでは離れることもできない。
透は愛乃の体からそっと手を離し、そのうえで肩をぽんぽんと優しく叩いた。
それで愛乃も、状況に気づいたようだった。愛乃は恥ずかしそうに、上目遣いに透を見た。
透は肩をすくめて、微笑む。
「自分で立てる?」
愛乃はこくこくとうなずくと、体勢を整えて、ゆっくりと透から離れた。
そして、彼女はじっと透を見つめた。
青色の瞳は透明に澄んでいた。
警戒されているのだと思う。
ほとんど関わりのない男に抱きしめられていたわけで、嫌だという気持ちはよくわかる。
(けど、とっさに助けたのに、感謝されず、嫌悪の目で見られるとは、ついていないな)
そんな事を考えてから、自己嫌悪に陥る。
べつに感謝されたくて、助けたわけではない。
怪我がなくて良かったよ、なんて恩着せがましいことを言うつもりはない。
このまま立ち去るつもりだった。
ところが、愛乃は目を伏せると、まるで勇気を振り絞るように小さな声を出した。
「あ、あの……連城くん」
「なに?」
「わたしが倒れそうになっていたから、助けてくれたの?」
愛乃は綺麗な日本語で言う。彼女は子どもの頃から日本にいると噂で聞いたような気がする。
見た目や生まれはフィンランド系でも、日本語ネイティブなのだろう。
「まあ、うん」
透は曖昧にうなずいた。
仕方なくではあったけれど、意図としては愛乃を助けた。さすがに大怪我を負いそうになっている人間を放っておくわけにはいかなかったからだ。
愛乃はぱっと顔を明るくして、嬉しそうに目をきらきらと輝かせた。
(こんな表情もするんだ……)
透はちょっと驚いた。感情豊かな愛乃は、とても可憐で、愛らしく見えた。
いつもの無表情な愛乃は、金髪碧眼のフランス人形のような美少女ではあった。ただ、透にとってそれ以上でもそれ以下でもなかった。
だけど、今は生身の、同い年の少女として、透の目の前にいる。
愛乃の明るい表情の正確な意味は、透にもわからない。
けれど、透が自分を助けたということが、嬉しかったということらしい。
どうやら嫌われているわけではないのかもしれない。
とはいえ、愛乃はすぐに表情を変えて、頬を膨らませた。そして、ジト目で透を睨んでくる。
相変わらず、頬は赤いままだ。
「か、勘違いしないでよね。別に連城くんに助けてもらわなくても平気だったんだから」
「そうは思えないけれど」
思わず、透はそうつぶやく。あのままだったら、間違いなく転落事故になっていた。
単なる強がりだということに気づき、そして、否定する意味もなかったな、と透は思う。
この少女を不機嫌にさせる理由もないのだ。
ところが、愛乃は口をぱくぱくさせ、黙ってしまった。
そして、愛乃は手を組んでもじもじさせ、恥ずかしそうにうつむいている。
調子が狂う。
関わるつもりはなかったはずなのに。
頭の中で警戒音が鳴る。
これ以上、この少女と関わると、大変なことになりそうだ。根拠はないけれど、直感がそう告げている。
なのに、愛乃がちらりと本棚を見た時、透の口から出たのは、自分でも予想外の言葉だった。
「必要な本があったら、俺がとろうか?」
「え?」
きょとんと、愛乃が首をかしげる。
「俺の身長なら踏み台を使えば、多分届くし」
透はそう言ってみた。
また愛乃が無理をして、同じようなことが起きたらまずい。
店員を呼ぶ手もあるけれど、透が取った方が早い。
心の中でそんな言い訳をする。
本当なら、さっさと立ち去るべきだ。
余計なお世話だと拒否されれば傷つくし、下心があると思われるのはもっと嫌だ。
なら、どうしてこんな提案をしているのか。
透は自分でもわからなかった。
愛乃は、サファイアの宝石を思わせる美しい瞳で、透を見つめた。
小柄な彼女その表情は期待できらきらと輝いていた。
透は思わず優しく微笑んで、そして「どの本をとろうとしていたの?」と聞いた。
愛乃は棚の最上段を指差す。
「その……『ロング・グッド・バイ』って本」
「チャンドラー?」
透が即答したので、愛乃はちょっと驚いたようだった。
チャンドラーは、アメリカのハードボイルド小説の作家。その代表作が『ロング・グッドバイ』。
「読んだこと……あるの?」
「まあね」
透はそれなりに読書家だから、ハードボイルドの名作ということで読んだのだ。読みやすい新訳も出ているし、分厚いけれど、面白くてすぐに読めてしまった。
「そうなんだ……」
愛乃は、なぜか嬉しそうに頬をほころばせる。透にとっては、愛乃がそういう本を読むのは、イメージと違った。
透は踏み台に登って、ちょっと手を伸ばし、軽々と青と白の表紙の文庫本を手にとった。
分厚くてずっしりとした質感だけど、文庫本だからすごく重いわけじゃない。
「どうぞ、リュティさん」
差し出された本を、愛乃はおずおずと受け取った。
そして、愛乃は「べ、別に……とってほしかったわけじゃないわ」と照れ隠しのように早口で言う。
そんなに照れなくてもいいのに。
「なら、戻そうか」
透は冗談めかしてそう言うと、むうっと愛乃は頬を膨らませた。
「連城くんって意地悪ね」
「意地悪なのは、リュティさんだと思うけどなあ」
透は穏やかに言ったけれど、愛乃はびくっと震えた。
そして、大事そうに文庫本を胸に抱え、目を伏せる。
「そう……だよね。あ、ありがとう。本当は本をとってほしかったの。それに倒れそうになっているところを……助けてくれて嬉しかった」
つっかえつっかえだったけれど、たしかに愛乃はお礼を言った。
勇気を振り絞って言う様子は、透の目から見ても可愛かった。
きっと感謝の言葉を言うのに慣れていないんだろう。意外と内気なタイプなのかもしれない。でも、必要なときは、ためらいがあっても、素直に話すことができる。
短い時間だけれど、透は愛乃のことを少しだけ理解した。
愛乃はぼそりとつぶやく。
「強がりを言うのは……わたしの悪い癖」
「必ずしも悪い癖ではないと思うよ」
驚いたように、愛乃が青い目を見開く。
「そう?」
「自分を守るために必要なことならね」
愛乃は、クラスでも孤高の存在を貫き通している。
そして、よそよそしい態度をわざととり、助けも友人も必要ないという態度を続けている。
それにはきっとわけがあるのだろう。冷たい態度には裏がある。
(だけど、そこに立ち入るつもりはないんだよ)
無関係な他人が、無神経に踏み込んでいい領域ではないと思う。
透にだって、そういう面はある。表面的な付き合いをして、無気力な生活を送っていることを他人にとやかく言われたくない。
それに……。知香のときのような思いを、二度と味わいたくはない。
愛乃は、見るからに特別な存在だ。そういう人間と関われば、自分の平凡さを嫌というほど思い知らされる。
だから、透は早くその場を立ち去ろうと考えた。
けれど、愛乃は違ったようだ。愛乃は「自分を守るために必要なことなら」と透の言葉を、独り言のようにつぶやいた。
どうやら、その言葉を気に入ったらしい。
そして、愛乃はふふっと楽しそうに笑った。金色の髪がふわりと揺れる。
「連城くんは……優しいんだ」
「俺? 俺は優しくなんてないよ」
「優しくない人は、クラスメイトを抱きとめたり、踏み台に乗って本をとってくれないよ」
「そんなことは誰でもやることだ」
「そうかな。でも、たとえそうだとしても、連城くんなら……」
そこで、愛乃は言葉を切り、透を観察するようにじっと見つめた。
その宝石のような美しい瞳は、純粋に澄んでいた。
(リュティさんは何を言おうとしたんだろう?)
言葉の続きが気になり、そして透ははっとする。
長居しすぎた。
もう透が愛乃にできることは何もない。柄にもないことをしたけれど、それももうおしまいだ。
なにか下心があって、親切をしたようにも思われたくない。
愛乃ほど目立つ美少女なら、そういう連中はたくさんいるだろう。
透は曖昧な笑みを浮かべて、片手を上げた。
「まあ、お役に立てて良かったよ。それじゃ、俺はこれで」
愛乃は、きょとんとした様子だった。
それから、慌てた表情になり、なにか小さくつぶやく。「待って」と言っていたように聞こえたけれど、それはあまりにも小さな声だった。
透はくるりと踵を返して、足早にその場を離れた。
そして本屋を出てから、透は気づく。
結局、目当ての本を買い忘れた。
ため息をついて、「まあ、いいか」と考え直す。明日でも明後日でも、本屋には寄ることができる。
透がするべきことは、平穏で退屈な日常へ戻ることだ。
(俺はリュティさんと関わるようなタイプの人間じゃない)
金髪碧眼の「孤高の女神」。ああいう輝くような特別な人間と関わると、ますます自分を嫌いになること間違いなしだ。
もう、愛乃と関わることもないだろう。
けれど、透は、愛乃という少女のことを理解していなかった。
まさか、この日を境に愛乃と毎日一緒にいることになるとは、予想もできなかった。
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