第2話 北欧美少女を抱きしめる

 透の通う講文館高校は、名古屋市の東区にある。難関校の多いエリアで、講文館も中高一貫・共学の進学校だった。


 名古屋で講文館に通っているといえば、ちょっとした自慢になる名門校である。


 幼馴染の女の子と一緒に、講文館の中等部を受けて合格したときは、すべてが順調だと透も思った。

 彼女は、小学校では一番の美人で、そして、それは中学でも同じだった。


 そんな可愛い幼馴染がいて、とびきりの笑顔で「透と一緒の学校に通えて嬉しいな」と言ってくれる。

 多くの男子生徒からしてみれば、羨ましい状況だったと思う。


 でも、そんな夢のような状況は長くは続かなかった。


(俺は……自分のことが嫌いだ)


 心のなかで、透はそうつぶやく。


 どうやっても、現在の自分を好きになることはできなさそうだった。


 高等部の一年になった今、透はごく普通の存在だ。

 決して成績は悪くない。中の上にずっと位置している。


 でも、それだけだ。他人に誇れるほどのことではない。


 努力してもそれより上へは行けなかった。進学校のこの学校では、周りにはずっと優秀な人間がいる。


 逆に、成績が良くなくても、人気者だったり、部活で活躍していたり……という人間もたくさんもいた。


 けれど、透には何の取り柄もなかった。部活もやめてしまった。

 

 クラスメイトに対してはいつも卒なく愛想良く振る舞っている。でも、それは本当の自分ではない。

 浮かないように、努力しているだけだ。

 

 嫌われてはいないけれど、深い付き合いのある人間なんていない。


 仲の良かった幼馴染の女子とも、中学生のときの事件をきっかけに疎遠になった。


 近衛知香このえともか、というのが幼馴染の名前だ。定期試験の成績優秀者が貼り出されると、いつも知香の名前は一位で載っている。


 この学校の定期試験は難易度も高いのに、ほぼ満点近くをとる化け物だ。


 しかも、生徒会の役員にもなり、女子バスケ部のエースでもある。


 透とは対照的な存在だ。

 彼女はあまりに優秀すぎて、すっかり遠い存在になってしまった。


 中学のときは、幼馴染の知香と、透はいつも比較された。透は、恥ずかしくて言えなかったけれど、知香のことが好きだったし、知香と釣り合うような人間になろうと努力した。


 だが、どれほど頑張っても、知香の隣に立てるような人間にはなれない。

 そんな残酷な真実を、透は嫌というほど思い知らされた。どこまでいっても、透は平凡だった。


 それだけのことなら、まだ良かった。

 以前ほど親しくはなくても、友人として関わり続けることもできたはずだ。


 けれど、中学生のときの事件が、知香を傷つけた。そのとき、透は何の力にもなれなかった。それどころか……逃げ出したのだ。


 透は知香に大きな負い目を作り、知香は透に失望した。そのせいで、今では口を利くこともできない。

 

 何より……透はそのことで、自分のことが大嫌いになった


「はぁ……」


 ため息をついたら、乗っている地下鉄が名古屋駅についた。毎日、この中部地方最大のターミナル駅で国鉄に乗り換えて、家に帰ることになる。


 高校一年生になったばかりの4月だが、中高一貫校なので、ほとんど生活に変化はない。


 学校へ行って、毎日一人で帰る。それだけだ。


 家に帰っても、透は一人だった。離婚した両親はどちらも家にいないから、一人暮らしだ。


 以前は……他に家族と呼べる人もいたのだけれど、その人たちも、もう透のことを家族とは扱ってくれない。

 

 とはいえ、透にも楽しみがないわけではない。


(本屋で新刊の本を買って帰ろう)


 両親こそいないけれど、お金に困っていないことは救いだ。一応、透の母は、名古屋有数の大企業経営者の一族の娘だった。


 乗り換えの名古屋駅の駅前には、大型書店がいくつかある。そのうちの一つに透は入った。


 推理小説でもライトノベルでも新書でも漫画でも、透は何でも読む。

 そんなことより、勉強した方がいいのかもしれないけれど。


(どうせ、俺は……)


 知香には追いつけない。頭の良いクラスメイトにも、かつて優秀だった父にも、遠く及ばない。

 何の目標もない。進路希望調査はいつも白紙だ。


(なら、俺はこの先、どうやって自分を肯定していけばいいんだろう?)


 透はぼんやり考えながら、本屋をぶらぶらと歩いた。


 そして、文庫本のミステリの棚の列にたどり着く。

 さすが駅前の大型書店だけあって、この書店は本の品揃えが良いけれど、一つ問題がある。


 棚が高すぎて、背の低い人だと棚の上の方の本に手が届かない。

 そういうときは、踏み台を持ってきて使うことになるわけだけれど……。


 透は目の前の光景を見て、固まった。


 棚の前に、クラスメイトがいる。

 見間違えるはずもない。


 金色の流れるような美しい髪、透き通るような白い肌。

 横顔を見ただけでも、女優のように整った顔立ち。


 クラスメイトの愛乃・リュティだ。

 フィンランド系だという彼女は、名前が愛乃、姓がリュティということになる。


(リュティさんがどうしてこんなところに……)


 小柄な愛乃は、踏み台の上に乗って、棚の上の本に手を伸ばそうとしている。ブレザーの制服を着ていて、透と同じで学校帰りなのだろう。


 愛乃は有名人だ。誰もが振り返るような美少女で、しかも外国人。いつもツンと澄ました顔で、誰とも交流しない。


 透とは中等部のときに同じクラスになったこともあるし、今も同級生なわけだけれど、性格も行動もあまり知らなかった。

 

 少しだけ事務的な関わりを持ったことがあるかもしれない、という程度だ。


 透は、見なかったことにしようと思った。


 特に関わりたい相手でもない。もちろん、ごく普通の男子生徒である透にとっても、愛乃は魅力的な美少女だ。


 けれど、お近づきになりたいかといえば、それは別問題だった。


 誰も近づけない孤高の性格の愛乃に、あえて踏み込んでいくほど、透は他人に関心がない。


 というより、勇気がなかった。なんとなく愛乃は男嫌いのような気もするし、関わろうとしても、拒絶されるのが目に見えている。


 そうして嫌な思いをして、ますます自分が嫌いになることは、よくわかっている。


 それに、愛乃はあまりにも有名人で、あまりにも目立つ美少女だ。

 関わるのは荷が重い。幼馴染の知香が、透にとって重荷となったように。


 回れ右をしようとしたとき、透は気づいた。


 愛乃は必死な表情をして、つま先立ちで、背伸びしている。


 教室での冷たい表情と違って、そこには人間らしい可憐さがあった。ほんの少しだけ、透は興味が湧いた。


 いったい、何の本を手に取ろうとしているんだろう?


 そこで足を止めたのが、運の尽きだった。

 視線に気づいたのか、愛乃がこちらを振り向き、そして、「あっ」という顔をした。


 そして、その拍子に愛乃が体のバランスを崩す。

 もともと踏み台の上で、つま先立ちをして、手を伸ばす不安定な体勢だったわけで……。


 姿勢を崩せば、あっという間に転落する。このままだと、踏み台から落下して、後頭部を床に強打することになるはずだ。


 危ない、と思った瞬間、透は動いていた。


「きゃあっっ」


 愛乃の甲高い悲鳴とほぼ同時に、透が愛乃を抱きとめる。


 後ろに倒れ込んだ愛乃を、背後から抱きしめる格好になる。ふわりと愛乃の金色の髪が乱れて、透の手にかかった。女の子特有の甘い香りが鼻孔をくすぐり、透は内心でドキリとした。


 動揺を抑えて、透は尋ねる。


「大丈夫? リュティさん?」


「え、ええ……」


 愛乃はこくこくとうなずき、そして、振り返り、青い瞳でじっと俺を見つめる。そして、首をかしげた。


「連城……くん?」


「そのとおり、そのとおり。クラスメイトの連城です。下の名前もわかる?」


 透は思わず軽口を叩く。どうせ下の名前は覚えていないだろう、と思って聞いてみたのだ。

 ところが、予想は外れた。


「透くん、だよね?」

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