第16話 少女と月の夜
○
「……兄さん。約束の事についてはもう追及しませんけど……言ってましたよね。罪には――」
「――罰、か」
「……はい」
「……何をご所望で?」
「兄さんの時間を少し下さい」
「はい?」
「……お茶に付き合ってください」
………。
それは罰にならないんじゃないかな。と思ったが、下手なことを言って藪から得体の知れないものが出てきても困る。藪の中の生態調査は生物学者に任せるとして、俺は「喜んで」と答えた。
「では、少し待っていてください。紅茶を淹れてきますから」
凛香はそう言って――恐らく三階の調理場へと向かった。
……少し前に紅茶を飲んだとは言えませんねこれは。
そんなことを思いながら、テラスへと出て、外を眺める。先ほど凛香がいた位置に移動すると、確かにこの家の門が見える。その先には家々が立ち並ぶ街があり、街を黒く塗られた空が包んでいた。
星はまだ見えない。しかし、月は昇り始めていて、空の一隅を白く切り抜くように染めていた。
少し冷たい風が、庭の樹木を微かに揺らす。
何を見るともなくぼうっとしていると、背後から「お待たせしました」という声がした。
白く柔らかさを持った湯気を立ち昇らせた紅茶をお盆に乗せて、凛香がテラスへと出てくる。そのまま、備え付けられたテーブルへと置き、俺を手招く。
「……さて」
席に着いて紅茶を一口飲み、人心地着いたところで、凛香がそう切り出す。
「グライミィスはどうですか?」
……記憶を探るまでもなく、語りたい話が数多くある。どれから始めようかと考え、まあまずはこれだろうと思うものを選択する。
「担任が霧峰才だった」
「…………え?」
それほど感情を表に出さない凛香だが、流石に驚いたようだった。
「霧峰才って……あの霧峰才ですか?」
「その霧峰才」
断言出来ると言っていい。オリエンテーションでの一幕だけでなく、俺は先生の本来の姿を見ている。生徒会室で見たあの姿は――あの雰囲気は、確かに彼だ。
「そう、ですか。……今年から入ったんでしょうか」
「いや、少なくとも去年から居る感じだったけど」
「ですが、あの霧峰才が教師をしているという噂は欠片もありませんでしたよね。話題にならないはずがないのに……」
「まあ、確かにな」
確かに疑問が残る。しかし、騒動を避けるために秘匿していた可能性も――いや、たとえ箝口令が敷かれていたとしても、担任される生徒は家族や親しい人には言ってしまうだろう。それで全く噂が立たないというのも変な話だ。加えて、俺達は先生が学園にいることを言いふらすなと求められることもなかった。去年までは駄目で、今年から別に隠す必要がなくなったということも考えられるものの、だとするとその理由がわからないため、どっちにしても判然としない。
「……本人に聞いてみるしかないんじゃないか?考えても分からなそうだし」
「……確かにそうですけど……いえ、今は忘れておきましょう」
凛香はカップを持って、紅茶を一口飲んだ。そしてゆっくりと、音を立てずにカップを下ろす。俺もまた、紅茶をちびちび飲む。
「そういえば兄さん」
「ふぁんふぁ」
「青宮詩織さんとは会いましたか?」
んごッほ。
「あら、どうしました?」
紅茶を口から噴出しなかったのを褒めてほしい。けほけほと咳き込みながら、俺は凛香に「何で……?」と尋ねる。
「いえただ、グライミィスの二年生に青宮家の令嬢がいると聞いたので、気になっただけです。でもその様子だと、もう面識があるみたいですね」
……いやいや、鎌かけが上手過ぎるだろ妹よ。つか鋭過ぎじゃね?
「……生徒会に入ることになってな。で、青宮先輩も生徒会で……」
「逆でしょう?」
「え?」
「青宮さんがいるから、生徒会に、では?」
「い、いやいや、そんなことは」
「では何故生徒会に?」
………やっぱり怒ってるじゃんかよぉ。追及の手が緩まないじゃんかよぉ。
内心を押し隠し、俺は努めて冷静を装った。
「霧峰先生が生徒会の顧問で、帰り際に生徒会に勧誘されたんだよ。それで興味を惹かれたんであってだな……」
「…………」
「ほんとほんと」
我ながらちょっと――いや、かなり怪しい。
「……まあ、そういうことにしておきましょう」
俺が信じてくれという念を込めて凛香を見つめていると、十秒ほどで凛香はにらめっこ状態から脱した。そして数秒夜空を見つめて、
「……勉強、今日はここでしますか?」
と訊ねてくる。
「ああ、それがいいな」
「わかりました。では今日は……魔法学ですかね。前回の続きから始めましょうか」
「んじゃあ、紙と筆記具を持ってくるよ」
俺はそう言って、二階にある自室へと向かい、部屋に置いてあった魔法学の課題を引っ提げてテラスへと戻る。
席に着き、昨日の記憶を呼び戻しながら、魔法陣を変換していく。傍らには凛香がいて、俺の手が止まると手助けしてくれる。紙には白と黒だけで構成された世界が眠っている。モノクロではあるけれど、その世界は深く、目を凝らせばどこまでも鮮やかな景色が見えてくる。
少女と月に見守られて過ごす夜は、記憶の海に幼い頃の憧れを見出した時のように、微かな痛みすら感じるほどに愛おしいものだった。
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