第15話 約束

 ○

 先生は疑問を投げかけておきながら、あの後何事もなかったかのように、「窓閉めサンキュ。また明日」と言って俺を帰らせた。余韻も何もあったものじゃない。

 とか言っている場合でもない。俺は自分の体に眠るエネルギーをすべて投入する勢いで下駄箱に移動し、靴を履き替えて校門を出る。時刻は既に六時を回っていた。もう凛香は帰ってきているだろう。……策を弄する時間は失われた。まあ、仕方ない。

 と、バッグの中でスマートフォンが鳴った。一度立ち止まり、何ぞと思いながら覗いてみる。

 そこには一文のメッセージ。

『三階のテラスで待ってます』

 送り主は見るまでもない。

 ……三階のテラスと言うのは、勿論、うちの屋敷の、と言うことだろう。俺は背中に汗が垂れてくるのを感じた。三階のテラス。それは凛香がかなりおかんむりになっているときに俺を呼び出す場所だ。俺はこんなに速く移動できたのかと自分でも驚くほどの速度で走り、登校時の半分くらいの時間で屋敷に到着した。

 俺は屋敷の三階を見上げる。そう、テラス。テラスで待っているということはつまり――。

 永い歴史の重みを身に纏う屋敷の、その三階の窓際に、一人の少女が立っている。その少女は俺の姿を確かめると――風に揺れる花がくらりと花弁を傾けるように、可憐に笑った。

 俺は右手をおずおずと上げ、「ただいま」と呟いてみる。ちなみに手を挙げたのは投降の意思を示すためであり、挨拶の為ではない。

 誠意が通じたのかどうかは判然としないが、少女は、待ってます、と口を動かした。

 ○

 玄関で恭しくお辞儀をする隼雄さんにただいまを告げて、脇目も降らずに階段を駆け上がる。たったかたったかと二階分の高さの座標移動をし、三階に辿り着く。

「……凛香」

 いつかと同じように、俺は妹に声をかけた。凛香はゆっくりとこちらを向いて、俺に歩み寄ってくる。

「……えーと、その」

「とりあえず、釈明を聞きましょうか」

 一応事情を聞いてくれるんだな、とその慈悲に感謝する。

 しかし俺が告げることができるのは、こんな言葉でしかない。

「ごめん。言えない」

「…………」

 すぐに訊き返されるかと思っていたが、凛香は何か考え込んでおり、言葉を発さない。俺が少し説明を付け足そうかと思ったところ、凛香は顎に当てていた手をゆっくりと下ろし、小さく息を吐いた。

「……わかりました。もう理由は聞きません」

「んえ」

 喉から変な音声が出てきた。

「……言えないんでしょう?」

「ああ、まあ、そうなんだが……」

「兄さんは気づいていないかもしれませんけど……」

 凛香が俺の目を見て、深いところに響かせるように、言った。

「兄さんが私に隠し事をする時は、大抵誰かを庇う為なんですよ」

「……そうか?」

「ええ。……本当に………」

 困った人、と凛香は何故か微笑みを浮かべた。息を吞むほど美しく、儚ささえ湛えた笑みに、俺は何かを言い出そうとした。心が何かを零しそうになった。胸の奥では、どうにかなりそうなほどに叫びが木霊していた。しかしそれらを全て醜い理性で押さえつけて、俺はただ、ありがとうと言った。

「……兄さん」

「ん?」

「……遅くなりましたが……」

「遅くなったのは俺の方じゃないのか?」

「……そのことじゃありません」

 じゃあ何が、と訊ねようとした俺に、凛香は頬を僅かに紅潮させて口を開く。

「制服、似合ってますよ……」

 その言葉は、か細い声で伝えられた。凛香は俺から視線を僅かに逸らしている。

「……ありがとう、凛香」

 凛香と交わした約束というのは、入学式当日に、制服を着た姿を一番に凛香に見せるというものだった。

 約束を破ったのに。俺は約束を破ったのに、凛香はどうしてこんなに優しいのかと、問いたくなる。

 そしてそれは、俺のような人間には――いや、俺のような出来損ないには、過ぎたものだと、伝えたくなる。

 

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