第2話 妹の声
いつの間にこんな場所に来たのだろうか。
俺は船に乗り、川を下りて行っているようだった。ここがどこなのかはわからないが、不思議と安心感があり、疑問はすぐに水に溶け、形を失っていく。
――ん。
誰かの声が聞こえた。
俺を、呼んでいるのだろうか。
――……ん。
周囲には誰一人見えないのに、その声はごく近くから囁くように聞こえる。
陽が沈んでいく。岸はいつまで経っても見えてこない。
俺は………。
――兄さん。
「おわっ」
肩を揺すられて、俺は目を覚ました。……眠ってしまっていたらしい。
「……まだ三割ほど変換できていないようですが……今日の授業は終わりにしましょう」
「え……いいのか」
俺はまた怒られるものだと思っていたんだが。
「……罰があった方がよろしいのですか?」
「いえそんなことは」
「では、終わりです。……早めに寝てください」
「ああ……今日もありがとな」
部屋を出ていこうとする妹に感謝を伝えると、小さく頷きが返ってきた。
ぱたん、とドアが閉まる。
……毎日勉強漬けで時間感覚がなく、今になって気づいたが、明日はグライミィス学園の入学式だった。だからちょっと優しかったのかな、と思う。
俺がこの国の中でも有数の名門校の試験に合格し、入学が決まった時、一番喜んでいたのは妹――凛香だったように思う。直接喜びを表現することはなかったが、表情がほんの少し緩んでいたのを見た。
そんなことを考えながら、ベッドに横たわり、布団に潜り込む。言いつけを守り、明日に備えて早く休もう。
軽い浮遊感。意識が溶け出していくような感覚を覚えた。
○
……もう朝か。
頭がひどく痛む。昨晩見た悪夢のせいだろう。何も入学式の前日の晩にあんな夢を見せなくてもいいじゃないか。
ベッドから降りようとする。瞬間、足にずきりと痛みが走った。
「……ッ」
何とか声を出さずに堪えることができたが、これは――おかしくなってしまいそうだ。左脚をついてみると、やはり、痛みがある。俺を戒めているような。俺を責め立てているような、そんな痛み。
…………そういうことか。仕方がない。
痛みは所詮情報に過ぎない。そう自分に言い聞かせる。自己という存在からそれを切り離すイメージを構築する。それは人間に――いや、生物には許されない能力であると確信できるが、今、そんなことはどうでもいい。そうだろ。
一歩。また一歩と足を動かす。耐えられる程度には痛みを遠ざけることができた。
これなら大丈夫、なはずだ。
○
階下へと降り、食堂へと向かうと、老執事の背中が見えた。
俺が挨拶をするその直前、声が届く。
「今日はお早いの……です、ね」
彼は平時よりほんの少し目を開いて、俺を見つめた。
やはりと言うべきか、気づかれてしまっているようだ。
俺は何も言わずに、彼に深く頷きを返した。
それだけで、『何も訊かないでくれ』という意思は伝わったようだった。
「……朝食をすぐ用意してもらうことはできる?早めに学園へ行きたいんだけど……」
「ええ。ですが……」
「凛香には……帰ってきてから謝るよ。何か聞かれたら、そう言っておいてくれ」
「承知いたしました。では、朝食の用意ができるまでしばしお待ちください」
「……ありがとう、隼雄さん」
俺の言葉に微笑を返して、隼雄さんは台所へ向かった。
俺はその後姿を眺めながら、全てに気づかれたわけではなかったことに安堵していた。
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