魔法が響く夜に

古澄典雪

第一章

第1話 夢の終わりと月の光

 扉を開け、外へと一歩踏み出す。そして、ひどく綺麗な夜へと放り出された。何かを思い出させようとするかのような、深い青の空。その中心で、月は微笑むように光を散らしている。風は柔らかく、頬に触れる夜気は心をゆっくりと染め上げていく。

 こんな夜に。

 ふと、そう思う。

 こんな夜に、どうして。

 心の中の呟きから目をそらす。考えはずっと変わらなかった。

 ならばこれが答えだと、信じよう。

 運命を変えて――運命を壊して、誰かを救って。因果が跳ね返るように、反動で壊れてしまったのは何だったのだろう。

 答えは分かっているだろうと、責め立てるように樹木が葉を鳴らす。

 それでも、俺は歩みを止めなかった。

 今日――夢は、終わるのだから。

 ○

 諸君、年下の子に勉強を教えられるという経験はあるか。俺はある。というか現在進行形で教えられている。情けないと言うならば、俺に聞こえないところで存分に思いを叫んでくれ。どうぞ。

 すらりと伸びる滑らかな指が、紙に記された文字をなぞっていく。美しく、しかし冷たさのない声が、耳朶をくすぐる。無機質で雑多な情報が、丁寧にまとめられて流れを形成し、俺の頭に入り込んでいく。

「第十一代目の王レンリの失政から生じた内乱によって数多くの死者を出した末に、かの国は自由を手にしました。レンリの施政で特に強烈なのは――そうですね、自国の産業を守るためだという大義名分で為された、無計画な関税の大幅なつり上げで――」

 彼女の声を聴いているだけで、俺は幸福感に満たされる。透き通るような声は、この上なく心地よい。いや、誰かに教えられるのも、いいものですな。前言撤回するなら今がチャンス。

「――兄さん?」

「何でございましょう」

「どこまで聞いてました?」

「ええと……関税をつり上げたってところまで…」

「……そうですか」

 声が優しくなったのを感じた瞬間、俺は自分の失敗を――それこそ十一代目の彼に匹敵するほどの失敗を――悟った。

「課題を一つ増やしましょう。これを変換し直してください」

 目の前に差し出された紙を見る。

「……これは何でしょう」

「魔法陣です」

「それは分かるんだけど」

「何が分からないのですか?」

「何がどうなってるか全然理解できない」

 魔法陣。魔術師ならば初めに覚えるであろう、基礎の基礎。魔術の詠唱を平面の図形に置き換えて表現するシステムだ。しかしこれは――。

「複雑すぎじゃありませんか?」

「無駄はありません。詠唱にして五百ワードくらいの魔法を最高効率で刻み付けてあります」

 俺は冗長じゃないかとか無駄があるんじゃないかとか言いたかったわけではないんですけどね……。

「五百ワードの詠唱の変換って……某最高学府の入試問題で見たんだが」

「詠唱から魔法陣へはかなり高度な技術が必要になりますが、魔法陣から詠唱への変換はさほど難しくありませんよ」

 せいぜい高等学校二年生レベルでしょう、と言う妹。……俺は入学前なんだが。ていうか妹は中学二年生のはずなんだが。

 冗談だよな、と思い、妹の顔を窺ってみる。

「どうしました?これが解けないうちは眠れませんよ」

 名月にも並ぶような静かで美しい笑みに、俺は覚悟を決めた。

 いやでも……徹夜には、ならないといいな。

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