かわいいフェレット

増田朋美

かわいいフェレット

その日、製鉄所では冷たい風が吹いて寒い一日だった。その日も、杉ちゃんたちは相変わらず水穂さんの世話を続けていた。

杉ちゃんが、その日も、水穂さんにご飯を食べさせていた。その日は、杉ちゃんが連れてきたフェレットの正輔くんと輝彦くんも一緒で、二匹の歩けないフェレットたちは、水穂さんが食事をしないのを、変な顔で眺めていた。確かにフェレットたちから見たら、食事をしないで、食べないというのは、餌を食べないということになるので、大事な事を忘れているように見えるのだろう。

「ほらあ、食べて。また吐き出さないで、しっかりご飯を食べてくれ。食べないと、本当に体が動かなくなっちまうぞ。」

杉ちゃんが、水穂さんにおかゆの入ったお匙を差し出すと、水穂さんは、それをやっと、口にしてくれた。

「よし、それでは、もう一回食べるんだな、ご飯は少しじゃだめだぞ、山程食べるんだ。そうしないと、体が持たないからな。」

と、杉ちゃんは、もう一度、お匙を持っていった。水穂さんは、今度は反対の方へ顔を向けてしまった。

「なんで。ご飯くらい食べようよ。食べないと力が出ないぞ。」

それでも、水穂さんは、ご飯を食べようとしないのだ。

「ほらあ、正輔たちも、呆れてるよ。ちゃんと食べないと、ご飯にも申し訳ないということだ。ほら、食べろ。」

杉ちゃんにいくら食べろ食べろといわれても、水穂さんは、ご飯を食べようとしないのである。正輔くんも輝彦くんも、たしかにフェレット語で何か行っているのかもしれない。

それと同時に、玄関のインターフォンの無い引き戸が、ガラッと音を立てて開いた。「水穂いるか。またお前の高弟子を連れてきたよ。今日のレッスンは一時からだったよな。ちょっと早いけど、こさせてもらった。それではぜひ、レッスンしてやってくれよ。」

やってきたのは広上麟太郎だ。それと、同時に、例のどもった口調で、

「こ、こんにちは。よ、ろし、く、お願いします。」

といわれてやってきたのは、高橋喜朗さんであった。

「レッスンって、今何時だっけ?」

と杉ちゃんが時計を見るが、まだ、12時半である。

「三十分もあるじゃないですか。レッスンの時間は、一時ですよね。」

水穂さんがそう言うと、

「おう。忘れるといけないから、急いでこさせてもらいました。いつまでも忘れていては行けないからな。」

麟太郎は、畳の上にどかっと座った。

「じゃあ、急いでご飯を食べて、レッスンしよう。こうして頼りにしているお弟子さんが居る以上、食べないというわけには行かないよ。ちゃんと食べような。」

杉ちゃんは、水穂さんにお匙を差し出すと、水穂さんは、はいと小さな声で言って、お匙を口に入れてくれた。そういう事を、10回くらい繰り返して、水穂さんは、やっと、おかゆを完食してくれた。

「よし、ちょうど一時だ。おかゆを食べたら腹ごなしに、こいつのレッスンをしてやってくれ。こいつを、一人前のピアニストにして、俺達のオーケストラのソリストにすると俺は決めた。決めたことは絶対俺は変更しないからな。誰かと違って、もうこの世の中から必要ないなんて、言ったりは絶対しないからな。」

麟太郎が、強引に水穂さんに言った。水穂さんは、布団からよろよろ起き上がって、布団の上に座った。それと同時に麟太郎が、ほら行けと言って、高橋喜朗さんをグロトリアンのピアノの前に座らせた。

「じゃあ、ショパンのピアノ協奏曲、やってみてくれよ。」

麟太郎がそう言うと、高橋さんは、それを弾き始める。

「随分うまくなったな。お前さん、結構練習してるんじゃないか。」

と、杉ちゃんがいうほど、高橋さんは、上手だった。とりあえず、第1楽章のソロ部分を弾き終わった。

「じゃあ、第2楽章やってみてくれ。」

と、麟太郎が言うと、

「そればっかりじゃなくてさ、他の作曲家の作品も弾いてみてよ。」

と、杉ちゃんにいわれて、高橋さんは少し考えて、

「ぶ、ブラームスを弾きます。」

と言い、ブラームスのラプソディ一番を弾き始めた。それもなかなか良い演奏で、中間部などきれいに決まっていた。フェレット二匹も、真剣に聞いているような表情をしてしまうくらいだ。

「上品でいい演奏ですね。なかなか、高橋さんは腕がよいみたい。他にも、演奏できる曲はあるんですか。」

と、水穂さんが言うと、高橋さんは、また少し考えて、メンデルスゾーンの厳格なる変奏曲を弾いた。それもまた上手だった。

「すごいなあ。お前さんは、一体何をやっている人なの?そんなにいろんな曲がいくつも弾けるんじゃ、どっか音楽学校でも出てるんだろ。」

と、杉ちゃんが言った。

「音楽学校は、で、でて、無いです。」

と、高橋さんは言った。

「ぼくは、ただ、の、農家です。」

「それにしては、ピアノがうまいなあ。何かからくりでもあるんでしょ。そういう体曲たくさん弾けるんだったら、十分な練習と、弾くことを許される環境があるんだろうな。ただの農家って言っても、実際には農業に携わらず、お前さんはひたすらピアノを弾いている。違うか?」

と、杉ちゃんが言った。

「そ、そう、か、も、しれ、ま、せん。」

高橋さんはそう答える。

「まあ、吃音であればそうなってもしょうがないよ。お前さんはピアノをやることによって、ご家族の了解を受けているんだったら、それで良いと思え。障害って、そういう事もあるからな。それでは、そうなっちまってもしょうがないよ。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「しかし、農業では確かに居場所が無いでしょうね。吃音となると、意思疎通が難しいでしょうし、そういうことでは、一人でピアノを弾くしかなかったのも、なんとなくわかります。それを、吉と出るか凶と出るかは、難しいんですけど。」

と、水穂さんは、小さな声で言った。

「水穂さんは、だいたい凶と取るだろうが、僕達は、彼の事を応援してやりたいな。せっかく、これで、ソリストという身分が約束されたわけだからさあ。水穂さんもそれはわかってあげような。」

と、杉ちゃんが言った。

「ええ、わかっています。公私混同はだめだって。それでは行けないですよね。頑張って、演奏をしてください。じゃあ、レッスンに戻りましょう。第2楽章を弾いてみていただけますか?」

と、水穂さんがそういったので、高橋さんは、第2楽章を弾き始めた。二匹のフェレットたちも、それを聞いている。第2楽章が終わると、麟太郎が第3楽章と言った。高橋さんは、第3楽章も演奏した。ちょっと急いで演奏しすぎているようなところもあったが、ちゃんと演奏はできている。彼の演奏技術の高さには、とても感動的な能力があるようだ。

「ようしようし、素晴らしい演奏だ。後は、オケ老人たちが、君のことを、認めてくれれば立派な協奏曲ができるよ。」

麟太郎がそう言うと、

「そうだねえ、そのオケ老人を説得するのが、大変なんじゃないの。」

と、杉ちゃんがからかうように言った。

「まあ確かにそうだが、音楽と言うものはすごいものだから、きっとわかってもらえるって俺は信じてるよ。」

麟太郎がそう言うと、そうかなあと杉ちゃんは言った。水穂さんもちょっと不安そうな顔をした。

麟太郎たちが、そうやって高橋さんのレッスンを行っている間、製鉄所の中で、困った顔をしている女性が一人いた。彼女の名は、牧田亜紀といった。二週間ほど前から、製鉄所を利用させてもらっているが、先日から、高橋さんが、ここへやってくるようになってきたのが、面白くないのだ。だって、牧田亜紀は、一応音楽学校には行っている。協奏曲を弾いた経験は無いけれど、たくさん難曲をやってきていて、音楽学校を出たという自負心が彼女にはあった。そんな彼女にとって、吃音で農家のヤクタタズのような人物が、ショパンの協奏曲を弾くなんて、ちょっと妬ましい気がする。亜紀は納得がいかないのだった。

「そこで何をしているのかな?」

杉ちゃんにいわれて、亜紀はぎょっとした。

「いえ、ただ、高橋さんが、お稽古してもらっているのが。」

そういうのであるが、杉ちゃんは変な顔をする。

「まあ、そうなんだけど、お前さん別のこと考えてないか?本当は羨ましくてしょうがない。違うか?」

そうからかい半分でいわれて、亜紀はちがいますよと答えた。

「そういう事、妬んでも仕方ないぜ。人を妬む前に、自分のことなんとかしろ。悔しいと思うなら、それを解決するためになんとかすればいい。」

杉ちゃんの答えは、本当に単純そのものであるが、でも、それがなんだかすぐにそうだねと納得行かないのは、どうしてなのか、不思議で仕方ないのであった。

「こっち来てみな、それで、高橋さんの演奏を聞いてみな。」

と、杉ちゃんにいわれて、亜紀も四畳半に入った。

「客が増えたぜ、もう一度、ショパンの協奏曲をやってみてくれ。」

「は、はい。わ、わかりました。」

と高橋さんは、ピアノの前に座って、ショパンのピアノ協奏曲を弾き始めた。確かに、すごく演奏技術もあるし、よく練習してある演奏であった。確かに農家では使い物にならなくて、その報復のために腕を磨いたことがよく分かる演奏でもあった。だから、亜紀も悔しくなるのだ。

「それでは、何か感想でも言ってみてくれ。何か、言いたいことがあるんだろ。」

一楽章が終わると、杉ちゃんが亜紀に言った。

「そうですね。」

亜紀も複雑だった。妬ましいという気持ちもあるし、何か悔しい気持ちもあるし、なんだか感想を言ってもいいかどうか、ちょっと迷ってしまうのだった。

「あたしは、そうですね。それでは、高橋さんの。」

亜紀は、口ごもりながら、そういったのであるが、不意に誰かが自分の指を噛んでいることに気がつく。誰だと思ったら、フェレットの正輔くんが、自分の指を噛んでいるのだった。

「ほらほら正輔くん、そんなに怒らなくてもいい。この人は決して悪い人じゃない。」

と、杉ちゃんが歩けないフェレットの正輔くんを、亜紀から引き離した。

「正輔くんもやっぱり不正だけはしたくありませんよね。」

水穂さんが、静かに言った。それを理解したのか、輝彦くんが、一声ちーちーとだけ答えた。

「フェレット語がわかったら、面白いことになりそうだな。」

と、杉ちゃんがカラカラと笑った。



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かわいいフェレット 増田朋美 @masubuchi4996

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