向上心が邪魔をする

@hashitami

第1話

カツオと梅子は向かい合って座っている。お互いに目を合わせず、見つめているのは、テーブルに置かれた離婚届。毎年恒例行事になりつつあるこのシチュエーション。カツオは心の中で

「デジャブかリアルか……」

 と呟いた。

 テレビでは、紅白歌合戦で流行りのアイドルがカメラ目線で自信たっぷりに歌っている。画面からピッピッと速報の音が流れ、“北陸で猛吹雪、通行止”のテロップ。

「どうりで寒いはずだよ」

着ているパーカーの帽子をかぶる。

「夢いっぱいだね……」

 梅子が呟いた。梅子はカツオと出会った頃のことを思い出していた。


 雪が散らつく神社の境内。元日参りに行く人の列が連なっている。

「やっぱり大晦日は降るよね。ああ、さっぶい」

 フウフウと自分の手を温める梅子の手をぎゅっと握りしめ、カツオが梅子の手を自分のポケットに入れる。

「どう、ちょっと温かいだろ」

嬉しそうに微笑む梅子。

「本当に停電とかになっちゃうのかな…、地球が終わっちゃったりして」

「やだやだ。私、まだ25年しか生きてないよ」

 大勢の人が寒そうにそわそわしている。

「なあ、地球が滅亡する前に……」

 大きな鐘の音が響きわたり、”ハッピーニューイヤー”の嬉しそうな掛け声が鳴り響く。

「しよう……」

「えっえっ、あっ電気ついてるじゃん」

「しようか……、結婚」

 沈黙のあと、カツオに精一杯の力で抱きつく梅子の目にはうっすらと涙が浮かぶ。


 あれから20年。離婚を意識するようになったのは、子どもを諦めたあの頃から。

 「カッちゃんとの子供だったら、タラちゃん?」

「いやいや、タラちゃんはサザエの子だろ。カツオはサザエの弟だよ」

「えー、そうだったっけ」

 あの時は、こんな未来が待っているなんて微塵も思っていなかった。全てが薄っぺらい絵空事だと今は思う。結婚して、当たり前に子供ができて、孫ができて、老いていく。そんな未来はもう僕たちにはやってこない。子供がいなくても幸せなんて、そんな風にいうのは、当たり前のことができているからそう言えるのだと心底思う。カツオは、相変わらず、充実感たっぷりの表情で歌う歌手たちに、嫌気がさしてテレビを思い切り消した。

「みんな頑張ってるよな。夢とかあって、頑張ってる。でも、俺たちは……。もう、いいだろ、今年は決めよう」

 カツオは、離婚届に雑な字でサインをし始める。

「ごめん」

頭を下げる梅子。

「なんで謝るんだよ。誰も何にも悪くないんだよ。全てはご縁と相性ってやつだろう。子供ができなかったのも、親から勘当されたのも、誰も悪くない。しょうがないんだ」

 カツオは言い聞かせるように呟いた。不穏が空気が流れる。

「そうだね。じゃあ、来シーズンはいよいよ契約更新しないってことで、お互いフリーエージェント宣言。カツオは若い子と再婚でもすれば、まだパパになれる可能性はある、うんうん」

 書いていた手を止めるカツオ。

「そうだな、それこそご縁があったらな」

「人間、前にしか進めないから、やっぱり進まなきゃダメだよね」

「そうだよ。何も変わってないけど年だけとった。でも、周りは、出世したり、子供ができたり、和宏なんて、もうすぐおじいちゃんだぜ」

 プッと吹き出す梅子。

「和宏くん、おじいちゃん顔だもんね。ちょうどいいかもね」

「そうだよ、みんな前に進んでるんだよ」

 梅子は意を決して離婚届にサインをし始める。ハンコを取り出し押そうとした時に、電気がチカチカし始める。

「えっ?」

あたりは真っ暗になった。

「おっと、停電かよ」

 引き出しから、ローソクを取り出してつけるカツオ。

「なあ、覚えてる? ミレニアム問題ってあったよな。2000年に。俺、あの時に実は本当に地球は滅亡すると思っていたんだ。だから何にもなかった時に、ラッキー、生きていてよかった。人生、儲けもんだと思ったんだ」

「え? そうなの? 私は2000年が混乱して、1900年に戻ると思ってた」

 クスッと笑う二人。

「でも、何にも起きなかった。変わらなかった。ちょっと拍子抜け。でも、カッちゃんがプロポーズしてくれたから、お嫁さんになって、変わろうと思った」

 ローソクの日が灯る中で、離婚届に判子を押す梅子。 

「はい、カッちゃんの分」

 離婚届を渡す際にローソクの上を通過する離婚届。

「あっ、ぶない」

 引火しそうになった離婚届と火を避けようとカツオ棚にぶつかりよろける。落ちてきた非常食の赤いきつねのカップ。

「なあ、俺たち、本当に変わらなくちゃいけないのかな」

「いけないんだよ。これまでもこれからも人間は変わらなきゃダメなんだよ。だってそうでしょ。一歩も前に進まないってことだよ。今さら何言ってんの」

 沈黙が流れる中、カツオが赤いきつねにお湯を注ぐ。

「うまいなあ、久々だけど。この味、俺が子どもの頃と一緒だ。変わらなくてもみんなに愛されるってよっぽどできた奴だよな、こいつ」

 ズズーっと思い切り音を立てながら麺をすすり、スープまで一気に飲み干すカツオ。

「変わらないってありじゃないのかな…色々求めすぎても、そうじゃない人生もあるんじゃないのかな。これまでもこれからも変わらない、そんな風になれないかな……。俺たち」

 梅子も赤いきつねにお湯を注ぐ。麺をすすり始めると、涙と鼻水が入り混じる。

「今日は、ちょっと……、しょっぱい」

 と微笑んだ。


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