菱谷明花 ②
いい感じで、ちょっとソフトなムードになったと思っていたのに、いきなりどんでん返しを食らわされた気分だった。
(ちょっ……なによ、この大量の課題は)
こんなの真面目にやってたら、寝る時間もなくなってしまう。
「先生、これちょっと多すぎるくないですか?」
上目遣いに視線を投げ、口を少し尖らせてみる。同級生の男子には見せることのない、とっておきの表情だ。
しかし国枝は、硬い表情のまま硬い声ではね返す。
「プリントをよく見てみろ。中身の大半は解説で、問題は四分の一ぐらいの分量だ」
プリントは上下逆向きに置かれていたので、読みにくかった。明花はそれを正すことなく、気乗りしないままパラパラとめくってみると、どうやら彼の言うとおりらしい。
とはいえ、解説文それ自体が難しそうだし、通読するだけで理解できるとは到底思えない。理解できなければ問題が解けるはずもない。
「もうちょっと少なくなりません? せめて、この半分。いや、三分の二」
明花は顔の前で両手を合わせて拝んでみたが、国枝は冷たい口調で突き放す。
「なりません」
思わずため息をつく。
(う~ん、今日はなかなか手強いね。ちょっと作戦変更してみようか)
「あのね、先生」
少し改まった口調で弁解を再開した。
「わたしだってやる気はあるんだよ、やる気は。でもね、勉強しようと思って教科書広げるじゃん。で、化学記号が目に入ったとたん、なんか頭の中がモヤモヤしてきて気持ち悪くなっちゃうんだよね」
言いながら明花は自分自身にがっかりする。なんて下手な言い訳……。
案の定、国枝は腕組みをして明花の顔を直視したまま微動だにしない。
(完全に形勢不利。こりゃ、どうもダメっぽいな)
半ば覚悟を決めたところへ、国枝は追い撃ちをかけてきた。
「もう何をどう弁解しても、幼稚な言い訳にしか聞こえない」
彼は机上に置いた課題プリントを指先で叩きながら、
「今週中にこの課題をやってこなければ、担任と相談してアルバイト許可の取り消しに動くぞ」
いよいよ絶体絶命。悪あがきは止めてこのあたりで降参するしかなさそうだ。というか、むしろここで潔さをアピールして好感度アップを狙うほうが、後々のためには好都合かもしれない。
「わかりました。やりますっ」
明花は言い放った。やればいいんでしょ、などという余計なひと言はつけ加えない。
「やりますけど……ホントに化学はわかんないとこだらけなんで、マンツーマンで教えてもらっていいですか?」
「どこがわからないんだ」
「全部──って言いたいとこだけど、怒られそうだから、例えば……」
別に今、教えてほしいわけじゃないんだけどな、などと思いつつ、なんとなくそういう流れになってしまったので、仕方なくプリントの適当な箇所を開いて指し示す。
「ああ、原子の相対質量か。それはな……」
と、国枝はさっそく説明を始めたが、明花から見るとプリントの向きが逆になので、読みづらい。
ちょっと待って、と彼女は国枝を制し、椅子を動かして彼の隣に位置を変えた。
(少し近すぎたかな)
座ってみて、国枝との間にほとんど隙間がないことに軽く戸惑いを覚えた瞬間、明花の胸にふと悪戯心が芽生えた。
(先生って〝色仕掛け〟にどんな反応するんだろ)
女子の間では、国枝はどちらかというと堅物という評判だ。それだけに俄然、興味が湧いてきた。もしうまくいけば、課題の量を減らしてもらえるかもしれない。明花は思案を巡らせる。
身体接触が発生する間際の状態ではあるが、ここからさらに身体や胸を押しつけたりするのは、あまりにも露骨で不自然だから……。
(こっちにしようか)
あくまでも自然を装いつつ、身なりを整えるふりをしてイスから腰を浮かせ、ただでさえ短めのチェック柄のスカートを一段とたくし上げて座り直す。両腿の露出がかなり大きくなった。濃紺のソックスに包まれた足先から膝頭を経てスカートに吸い込まれる美脚は、形といい色艶といい、明花が顔と並んで最も自信をもっている部位だ。
(でも、あまりやり過ぎると逆効果よね。ふしだらな女と思われるのはイヤだし……下手に先生の機嫌を損ねたら、課題を減らしてもらうどころか叱られちゃうかも)
国枝が声を荒げることは、ほとんどない。問題行動に出くわしても、冷静に諄々と道理を説いて指導するタイプだ。でも……何だか今は……叱られても構わないと、なぜか明花はそんな心持ちになっていた。
見た目が幸いしてか、幼い頃より年上男性から厳しく叱責されたことなど、ついぞ記憶にない。
(ていうか、わたし、大人の男の人に……いや、国枝先生に厳しく叱られてみたいんだ。なんかMだな)
突然、意識の表面に浮かび上がってきた自分の潜在的な欲求に、明花は驚くと同時に戸惑っていた。やはり、幼少時から満たされなかった父性を、無意識のうちに求めているのだろうか。
(もし本当に叱られたら……その時は素直に謝ろう。二度とこんなことしません、ってちゃんと反省した姿を見せれば、先生はきっと許してくれるはず)
そして「こんなはしたない真似、おまえには似合わない」などと諭されながら、頭なんか撫でられたりしたら……。
(やばい。泣いちゃいそう)
妄想がとめどなく膨れ上がり、次第に鼓動が速くなる。
(えっ……うそっ!?)
あろうことか、自分が勝手に思い描いていた妄想に現実の心と身体が反応し、本当に涙が滲んできた。いけない、と思った途端、どっと涙が溢れて瞬く間に頬を伝い、スカートから露出した両腿にポロポロとこぼれ落ちてしまった。
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