国枝駿一 ②

 理科教室のドアは開放していたので、指定時刻に違わず廊下に現れたシルエットで、それが菱谷明花であることはすぐにわかった。

 しかし彼女は、律儀に名乗る。

「二年C組の菱谷明花、まいりました」

 後ろ手にドアを閉めようとする明花を、国枝は制した。

「ああ、閉めなくていい」

「そっか。密室はマズいんですね」

 明花は訳知り顔で頷く。

 昼休みや放課後の個別指導の際、外から内部を覗えない空間で生徒と二人きりになることは禁止されているのだ。言うまでもなく、教師による猥褻系不祥事防止のためである。ドアを開放していれば、廊下を行き交う人の目や耳が届くので、抑止の効果はある。

 学校机を挟んで明花と正面から向かい合い、国枝は切り出した。

「どうして呼び出したか、わかるよな」

 明花は悪びれた様子もなく、あっさりと頷く。

「化学の成績のこと、ですよね」

 国枝は、テストの点が非常に芳しくなかったこと、加えて普段から提出物の出来が良くないことを指摘し、それについて明花の考えを問いただした。

 明花は軽く眉をしかめて、栗毛色のロングヘアの上からうなじのあたりを撫でながら、

「生物はともかく、化学って苦手なんだよね~」

 と、一転くだけた口調で弁解を始めた。

「忙しくて時間ないから、ついつい化学の課題は後回しになっちゃって……」

「多忙が理由ならアルバイトやめろ。何なら、担任に頼んで許可を取り消してもらおうか」

「それ、めっちゃ困るんですけど」

 とんでもない、と言わんばかりに明花は大きめの瞳を見開いて、顔の前で手を振った。

「てか、バイトだけじゃないもん。わたし、家事もやってるんですよ。母の代わりに、ご飯の支度とか洗濯とか掃除も」

(ほぼ予想どおりの言い訳だな)

 国枝は心の中で頷く。夜の仕事に従事する母一人娘一人の母子家庭であることは知っている。とはいえ、家庭事情は家庭事情、学業は学業だ。

「いろいろと事情があるのは聞いているが、やるべきことはやらないといけないし、忙しい中でも自分の時間を作り出す工夫をしなくちゃいけない。それも生きる知恵だ」

 そこで国枝は姿勢を改めて告げる。

「おまえ、看護師志望だと担任から聞いたけど、それなら化学と生物はしっかりやっとかないと、来年困ることになるぞ」

 国枝の言葉が耳に入っているのかいないのか、うつむき加減で頭を振っていた明花が唐突に顔を上げた。

「やっぱ、わたし、看護師やめようかな」

「はあ? やめてどうするんだ」

「アイドルとかよくないですか? この美貌を活かして」

 明花は無邪気な笑みを見せる。ほら、始まった。自分を差して「この美貌」とか、言うか。しかし、そんな調子に乗った台詞を口にしても、相手に深刻な不快感を与えないのが、この娘の特長だ。

「あのな、アイドルって顔がいいだけじゃダメなんだろ」

「それなんですよ。わたし、顔もダンスもわりと自信あるんだけど、歌はうまくないんだよね。先生、今度一緒にカラオケ行く?」

「何の話してるんだ。行かないよ」

「なあんだ、つまんないの」

 嘆息しながら背もたれに身体を預けた明花は、今度は反動をつけるように上体を乗り出して、両手で机に頬杖をつき、国枝の顔を直視した。

「でも、さっき顔はいいって言ってくれましたよね。ありがとう、先生」

 そこで再び、にっこりと微笑む。

 どうもよろしくない。父娘ほどの年齢差がある小娘のペースに、微妙にはまっている。しかし、この場は教師として生徒に籠絡されるわけにはいかない。

 国枝は自分のペースを取り戻すべく、椅子の上で姿勢を正し、咳払いで威厳を繕う。そして、自身の後ろの机に準備していた大量のプリントを明花の目の前に置いて、言い渡した。

「ま、言い訳は言い訳として、とにかく化学の単位が欲しければ、この課題を完成させるんだ」

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