菱谷明花 ①
理科教室のある四号校舎二階への階段を上り終え、菱谷明花は、左手首の腕時計で時刻を確認した。針は午後四時二分前を指している。
明花は時間には細かい。幼い頃から家事を効率よくこなさなくてはならなかったという環境が、多分に影響しているのだろう。
廊下を歩きながら彼女は、トレードマークの笑顔を引っ込めて小さくため息をついた。
理科教室を訪れること自体は嫌ではないのだが、予想される話の内容は喜ばしいものではない。おそらく化学の成績のことだろう。看護師を目指すなら生物や化学の履修が必須だ、と一年時の担任の先生に強く勧められ、しぶしぶ二年時で選択した科目なのだが、国語や英語に比べて理系科目が苦手な明花には、かなりハードルが高かった。
(生物はともかく化学って、ホント、さっぱりわかんないんだよね)
先日のテストの点数を思い出して、彼女は一人苦笑いを浮かべた。
生活苦というほどお金に困っているわけでもないのに「小遣いは自分で稼げ」という、妙なこだわりをもつ母の方針のもと、何とか担任教師を丸め込んでアルバイトができるようになったものの、実際に仕事を始めてみると予想以上に時間のやりくりは厳しくなった。母に代わってこなさなければならない家事もあるし、遊びに費やす時間もある程度は欲しい。
結果として、しわ寄せは勉強時間が受けることになった。ただでさえ億劫な苦手科目の化学など、教科書を開く気にもなれない。それにあの意味不明な化学記号というやつ、眺めているだけで拒否反応が起きて気持ち悪くなる。
化学記号に似たメーカーロゴが印刷された冷凍餃子のパッケージが、脈絡もなく脳裏に浮かんだ。
(そうだ。帰りにスーパー寄って冷凍食品買っとかなくちゃ)
高校生になってから、炊事はほとんど明花が担当している。母は夕方から日付が替わる頃まで店に出ているのだ。
(味噌も少なくなってたけど、今晩一食分くらいは大丈夫かな。ママ、わたしの作る味噌汁はけっこう気に入ってたし)
料理の上達ぶりを褒める母の言葉を思い出して、ひとり微笑む。
母の遥花とは、容姿が似ているとよく言われる。
では、性格はどうか。
(やっぱ、似てるとこもあるんだろうな)
母はいわゆる「不思議ちゃん」だ。マイペースで周囲とズレた言動が多い。一般常識から少し外れた感性を持っているせいか、どこか現実離れした雰囲気を漂わせている。見た目が奇抜なわけではないけれど。
常識外れなのは母だけでなく、亡くなった祖母も含めて母方の家系の特徴だ。そして残念なことに、その特徴は男性関係にも適用される。
明花には父親がいない。正しくは、どこの誰だかわからない。
母と祖母の話を総合すると、未婚の身で明花を宿したと思われる時期に、複数の男性と関係を持ってしまい、誰の子かはっきりしないまま産んでしまったという。ひどい話だ。
現代風に言えば「ビッチ」になるのだろうけれど、ガツガツした肉食系女子かというと、またそれも違っている。男から迫られると、強く拒むことなく身体を許してしまうタイプらしい。
そんな不行跡の結果として生まれてきた明花だが、特に過酷で悲惨な幼少期を過ごしたわけではない。母も祖母も愛情を注ぎ、慈しんでくれた。
ただ、明花の性格に母の血を引く要素がないはずもなく、友だちから「天然キャラ」と称されることはたびたびある。
それは母に似てマイペースで突拍子もない言動や、のべつ楽しそうに微笑んでいること、教室の窓から外を眺めながら妄想に浸ること等々が理由らしい。
むろん本人にも自覚はあるけれど、彼女自身は、いろいろなことをちゃんと考えて生活しているつもりだった。そもそも、天然だけで日々を生きていたら、テキパキと家事をこなすことなんかできないだろう。もっとも、友達に言わせれば「天然キャラが自分を普通だと思っていること自体が天然だ」ということになるのだが。
(それに男関係は……わたしはママのようにはならない)
明花は、校内でも三本の指に入る美少女と呼ばれている。
目鼻立ちの整った正統派美女。彼女自身そう自認してはいるものの、正直なところ、そんなことはどうでもいいと思っていた。異性の好みなんて人によって千差万別だし。
(周りの男子って、がさつでうるさくて汚くて、しかもそれが男っぽくてカッコいいとか勘違いしてる
隣席から頻繁にちょっかいを出してくるデリカシーゼロの野球部男子を思い浮かべて、軽く眉をしかめた。
告白されたことは何度もあるけれど、そのつどやんわりと、でも妙な期待を抱かせないように断ってきたし、校内でもことさら男子の目を意識した言動はとっていないつもりである。
ただ、父親がいないせいか、明花には年上の男性に惹かれる傾向があった。
幼い頃には、父親不在の理由を母に問いただして困らせたこともあったが、成長するにつれてさまざまな〈大人の事情〉がわかるようになり、自然に母娘二人の環境を受け入れる心境になっていった。
しかし、父性を知らずに成長した心は、自分でも気づかないうちに激しい飢えに瀕していたのかもしれない。
身近な年上男性といえば、とりあえず学校の男性教員だが、親しさの濃淡はあるにせよ、ほとんどの教員との関係は師弟の範疇を外れるものではない。
(でも一人……理科の国枝先生だけは、なんか絡みたくなっちゃうんだよね)
理由は自分にもわからない。友達に言わせれば「見た目普通の中年さん」なのだが、あの穏やかな風貌に接すると訳もなく、自分をいつも見ていてほしいとか、自分のことを気にかけてほしいとか、そんな気持ちにさせられてしまう。
彼の前では、明花は〝かまってちゃん〟と化していることを認めずにはいられないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます