第21話 祭りのあと(前編)

たまには握手を求められることもある。そしてサインを求められることや、記念撮影を求められることだってある。サインなんて考えていなかったから何を書けばいいのか解らず、何の工夫もなくカタカナで『ジュン』と書いた。ヒデさんやリンカさんは当然のようにスラスラと、まるで芸能人のようなサインを書いていた。さすがに場なれしている。

 半分ほど残るアイスコーヒーを手に取りストローを回すと、溶け切りそうな氷がグラスに当たって頼りない音を立てた。もちろんコーヒーには、ガムシロップを四つ入れた。そしてミルクも四つだ。いつものことだからうちのメンバーは驚かないけど、アウスレンダーの三人はたいそう驚いていた。そして驚くだけでなく、激しくツッコミを入れてきた。おい待てや! 入れすぎやろ! どんだけ入れんねん! まだ入れるんかーい! さすがは関西人。ツッコミに余念がない。

「しかし、ウチらが負けるとはな……」

 リンカさんがこのセリフを口にするのは、もう何度目だろうか。ことあるごとに溜息を吐いては、この言葉を口にしている。

「接戦でしたね。それでもボクたちが勝つって思ってましたけどね……」

 あんなに怖かったリンカさんが、今は何だか可愛らしく見える。

「もう、何なんこの子。いきなり女の子になっとるし、なんか生意気になっとるし、なにこれキショイ……」

「キショくないです!」

「すまん、すまん。……おっと、もう時間やな。そろそろ行くわ」

 アウスレンダーの三人が席を立つ。

「花火、観ていかないんです?」

「大阪まで帰らんとあかんからな……残念やけど」

 ボクたちも立ち上がって、彼女たちを見送る。

「シドとの対バン、楽しみにしとくわ。絶対に観に来たるからな」

 そう言ってリンカさんが、握手を求めて右手を差しだす。

「最高のライブ、約束しますよ」

 差し出された手を強くにぎる。

「もう、何なんこの子。めっちゃ言うやん。キショイわぁ」

「キショくないです!」

 リンカさんたちが笑っている。つられてボクたちも笑う。

「ほなな。次は負けへんからな!」

 そう言い残して、アウスレンダーの三人はフェス会場を後にしていった。彼女たちの後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと三人を見送っていた。


 ボクたちのフェスが終わった。

 この三ヶ月間、全てを捧げたフェスが終わってしまった。

 優勝という最高の形で。

「終わっちゃいましたね……」

「あぁ、終わったな……」

「終わったよな……」

「終わっちゃたね……」

 ボクたち四人は夕日に照らされながら、交わす言葉も少なく物悲しさに浸っていた。

 祭の後は、いつだって悲しい。

 夏祭りや縁日の後はもちろん、学校行事だってそうだ。終わってしまえば物悲しさだけが残る。そう、体育祭の後や、文化祭の後はいつだって物悲しい。目標に向かって突っ走った後の、そして目的地にたどり着いた後の爽快感や達成感、そんなものとバランスを取るかのように物悲しさは襲ってくる。

 幼い頃、縁日の帰り道で泣いていた記憶がある。神社の境内いっぱいに立ち並んだ屋台。楽しげに行き交う人々。夢のような時間はあっという間に過ぎ去り、手を引かれながら物悲しさに涙を流していたような気がする。

「一旦コテージに戻るわ」

 ノリさんが席を立つ。

「オッケー。オレはこの辺に居るから」

「花火までに帰ってくるよ」

 そう言ってノリさんは背を向け、ビーチを歩いていった。

「それじゃワタシも、コテージに戻ってくるかな」

 ノリさんに続いて、ユキホも行ってしまった。

 ヒデさんと二人、席に残された。

 二人きりだなんて、なんだか緊張してしまう。不意にあの夜の約束を思い出した。ヒデさんは、憶えているだろうか。あの夜、フェスで優勝したら付き合うと約束してくれたことを。心なしか、ヒデさんも緊張しているように見える。

 あの約束を憶えていますか。その一言が言えず、気まずい雰囲気のまま二人で無言の時を過ごした。

「少し歩くか?」

 沈黙を破ったのは、ヒデさんだった。

 誘われるがまま、夕日に輝く波打ち際を並んで歩く。

 フェス会場を背に、コテージの方向へと向かう。

 肩を並べて歩いていると、ときおり指先が触れた。

「ジュン、あの夜の約束、憶えてる?」

「……も、もちろんですよ」

 おもむろに、ヒデさんが約束のことを口にした。

 フェス会場の喧騒はすでに遠のき、足元で波が弾ける音が聞こえる。

 刻々と沈みゆく夕日に、闇が濃さを増していく。

「あのときオレ、救われたんだ」

「救われた?」

「オマエが好きだと言ってくれたことにだよ。それから、あの一言にも……」

「何か言いましたっけ?」

「言ってくれたじゃん。一緒に震えてくれるって」

 あの夜、ヒデさんはステージに立つことが怖いと言った。怖くて眠れない夜があると。そしてボクは一緒に震えてあげると言って、ヒデさんの失笑を買ってしまった。

「自分のことを理解してくれるヤツが居るって、いいもんだって思ったよ。気持ちを分かち合ってくれるヤツが居るのって、本当に心強いよな。たった一人でいいんだよ。たった一人の理解者が居るだけで何でもできる、そんな気がしたよ」

 そんな風に思ってくれただなんて、思ってもみなかった。

 ヒデさんが心細いとき、そっと寄り添うことができればいいなって思う。嬉しいことや楽しいことだって、二人で分かち合っていくんだ。それって、とても素敵なことなんじゃないかと思う。

「ありがとな、ジュン」

 そう言うとヒデさんは、不意に立ち止まった。

 そして憂いを含んだ目でボクを見詰めながら、静かに告げる。

「でも、あの約束は守れない」

 その言葉に、時が止まる気がした。

 波の音すら聞こえなくなってしまう。

「でも、ボク、ヒデさんが好きで、だからあの夜だって……」

 どういう意味なのか訊きたいのに、巧く言葉にならなかった。

「ジュンに必要なのは、オレじゃない。そうだろ?」

 ボクはこんなにもヒデさんを必要としているのに、どうしてそんなことを。

 そのとき、不意にノリさんの声が響く。

「お、合流できた」

 夕闇の向こう側から姿を現したノリさんに、珍しくヒデさんが舌打ちをする。

「タイミング悪いよ、オマエ」

「なに。お邪魔なら消えるけど?」

 のんびりのしたノリさんの声に、場を支配していた緊張が緩む。

「ノリ、一人なの?」

「そうだけど、なんで?」

「ユキホもコテージ行ったから」

「いや、見てないけど?」

 ノリさんが席を立った後、ユキホも確かにコテージへ行くと言って席を立った。

「ユキホ、まさか……」

 思わず唇を噛む。

 きっとボクとヒデさんを二人きりにするために、ユキホは席を立ったのだ。まったく余計な気づかいを……。

 でもそれじゃ、ユキホは一体どこへ行ったのか……。

「ボク、メッセージ送ってみます」

 不安に駆られて、ユキホのスマホにメッセージを送る。

 けれども返信はなかった。

 きっと泣いている……。

 なぜかそう思った。

 そう思った瞬間、不意に記憶が蘇える。

 幼い頃の縁日。ユキホと二人、手をつないで神社から帰った。祭りの後の物悲しさに耐え切れず、帰り道で涙を流していたのはボクじゃない。ユキホだ。あんまりユキホが泣くものだから、ボクはつられて涙を流していただけだ。

 きっとどこかで、ユキホが泣いている……。

 そう思うと、居ても立ってもいられなくなる。

「行ってやれよ」

 ヒデさんの言葉が、優しく背中を押す。

「でも、ボク……」

「ユキホにはジュンが必要だし、ジュンにだってユキホが必要だ。そうだろ?」

「そ、それは子供の頃から一緒だし、家も近くて……」

 しどろもどろになってしまうボクの言葉を、ヒデさんがさえぎる。

「幼馴染みってさ、気付きにくいよな。こういう感情」

 その言葉に、ようやくボクは思い至る。

 ボクの側には、いつだってユキホが居た。幼い頃からずっと一緒だったから、そのことが当たり前になっていた。だから二人の距離を、恋愛感情で測ったことなんてなかった。

 ボクが辛いとき、悲しいとき、心細いとき、いつもユキホが寄り添ってくれた。それじゃユキホが心細いときは、誰が寄り添ってやるんだ?

 ボクしか居ないじゃないか。

 ボクがユキホに寄り添わないで、誰が寄り添うんだ。

「行かなきゃ……」

 駆け出そうとして思い留まる。

 それじゃ、ヒデさんはどうなる?

 ボクの言葉に救われたと言ってくれたヒデさん。

 ボクのことを、大切だと言ってくれたヒデさん。

 そんなヒデさんを裏切るだなんて、ボクにできる訳がない。

「好きなんだろ? ユキホのこと」

 問われてすぐに、答えることができなかった。

 自分の気持ちに自信がないからじゃない。

 この言葉で言い表すことに、慣れていないからだ。

「……はい。好きです」

 言葉にして、ようやく自分の気持を理解する。

 ボクはずっと、ユキホのことが好きだったんだ……。

 ヒデさんの手が、優しくボクの頭を撫でる。

 思わず涙があふれ出した。

 ボクはヒデさんを裏切ってしまう。

 申し訳なくて、ヒデさんの顔を見ることができなかった。

 それでも伝えなくてはならない。自分の言葉で伝えるべきだ。

「ヒデさん……」

「ん?」

 無理やり顔を上げ、涙声で告げる。

「ごめんなさい! あの夜の約束は守れません」

 心の底から、ボクは詫びる。

 ごめんなさい、ヒデさん。本当にごめんなさい……。

「いいから、早く行ってやれって」

 返事すらできず、その場から走り去った。

 心の中でずっと、ヒデさんに謝り続けながら。

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