第16話 男の子、女の子(後編)

 ドリッパにフィルタをセットして、挽きたての珈琲豆を入れる。

 湯を注いで蒸らすと、キッチンが芳ばしい香りで満たされていった。

「自分の家だと思ってくつろいでね」

 キッチンで珈琲を淹れながら、サアヤはカウンターの向こうへ声をかける。

「そう言われても、豪邸過ぎて落ち着かないですよ……」

 ソファーに腰かけながらも背筋を伸ばし、ジュンが忙しなく部屋を見回している。

「景色、めっちゃ良くないですか!?」

「タワマンだしね。それなりには……」

「もしかしてサアヤさんって、お金持ちです?」

「うーん。正確にはアタシじゃなくて、旦那がね……」

「車も外車だし。赤いスポーツカーなんて初めて乗せてもらいましたよ」

「はは。それもまぁ、旦那がね……」

 車の話をされても、実はよく解らない。解るのは、エンブレムが四つの輪っかで可愛いなってことくらいだ。

「珈琲でいいよね? ダメって言われても、もう淹れちゃったけど」

「珈琲、好きですよ」

「お砂糖とミルクは?」

「えっと、あの……ブラックでお願いします」

 ジュンの珈琲を、イッタラのカップに注ぐ。自分の分は、お気に入りのアラビアのマグに注いだ。ムーミンがプリントされているカップだ。二人分の珈琲を盆に乗せ、そしてスティックシュガーとミルクも乗せて、サアヤがキッチンを後にする。

 化粧してみないかという提案に乗り気ではなかったジュンだったが、サアヤの勢いに押し切られ、そして調子に乗ったヒデの後押しもあり、試してみようという気になっていた。

 あのままカフェで化粧してもよかったのだけれど、どうせならフルメイクしてあげたいとサアヤは考えた。そうなると道具が揃っている方がいいし、せっかくの変身なのだからウイッグや衣装もあった方がいいに決まっている。全ての条件を満たす場所はどこかといえば、一番手近なのはサアヤの家だった。必然的にジュンを自宅へ拉致……もとい、招待することになった。

 ヒデはフェスの実行委員会に用事があり、来ることができなかった。彼の悔しがりようは大変なもので、別れ際に何度も「ジュンのメイク写真、絶対にメッセで送ってくださいね」と懇願し、クロスバイクで坂を下りながらなお「絶対にですよ!」と叫んで念押しをしていったほどだ。

「珈琲お待たせ」

 テーブルにカップを置き、サアヤがジュンの隣に腰を下ろす。

 猫舌のジュンは、珈琲に息を吹きかけ少しづつ口に含んでは「美味しい」と呟いている。いちいちやることが可愛いらしい。

 だけどサアヤは見逃したりしない。美味しいと言いながらも、眉間にシワを寄せるジュンの表情を。そっとスティックのシュガーとミルクを差しだす。

「よかったら、使ってね」

 ジュンが驚いた表情で、サアヤを見上げる。

「アタシの前で、格好つけなくていいからね」

 そう言って笑顔を向けると、ジュンは真っ赤になりながらスティックシュガーに手をのばした。シュガーとミルクを三本づつ珈琲に入れて、うつむきながらスプーンで混ぜる。

「飲み終わったらさ、お顔洗っておいで。ゆっくりでいいよ」

 タオルを手渡し、洗面所の場所を教える。程なくして洗面所から戻ったジュンが、テーブルいっぱいに並べられた化粧道具の数に驚く。

「女の人って、大変なんですね……」

 そう、大変なのだ。ただし、手を抜かずにやろうとすればの話だ。十年以上メイクしているサアヤには、手の抜きどころくらい身についている。

 しかし今日はもちろん、手抜きなしのフルメイクでジュンを変身させるつもりだ。

「おいで。顔を剃ってあげる」

 ソファーにジュンを仰向けに寝かせ、膝枕をする。

 彼の頭を太腿へと導くと、ジュンは顔を赤くしてつぶやいた。

「なんて言うか、その、恥ずかしいんですけど……」

「なに言ってるの。童貞でもあるまいし」

「いや……その……」

 小さく発せられた言葉は、そのまま立ち消えてしまった。

「あ、もしかして、童貞くんだった?」

 さらに顔を赤くしてジュンがうなづく。

 ヒデとはあまりにも違うジュンのウブな反応に、思わず口元が緩んでしまう。

「ごめんね。たまに気づかいのないことを口走るらしいから、気に障ったら言ってね」

 乳液をスムーサー代わりに、ジュンの顔にカミソリを当てていく。

 顔を剃り終え、続いて眉を整える。

 余分な乳液を拭き取って、ビューラーでまつ毛を反らせていく。

 肌色に合わせて、下地を選ぶ。

 CCクリームを伸ばして、アゴの剃り跡をコンシーラーで抑える。

 ファンデーションをブラシに馴染ませて、頬から順に色を乗せていく。

「ここからは、絵心が試されるから座ってね」

 ジュンの隣に寄り添い、サアヤが眉にアイブローを入れていく。

「目を閉じてね。アイシャドウ入れるから」

 準備した衣装に合わせて、濃い目の色を選んだ。

 目尻から順に、グラデーションを描いていく。

「男の子が無防備に目を閉じてるのって、何だかエッチだね」

「何ですか、それ……」

「イタズラしたくなっちゃう」

「からかわないでくださいよ」

「ねぇ、チューくらいだったら、してもいいかな?」

「えぇ!? そんなこと言われても……」

「ごめん、ごめん。怯えないで。もしかして、キスもしたことないとか?」

「……あ、ありますよ。一応は」

「初めてはいつ? オネェさんに聞かせて。こういう話、大好きなの」

「その、今年の四月に……」

「四月!?」

 驚いてアイラインを描く手が跳ねそうになる。

「もしかして、お相手はヒデくん?」

「は、はい……」

 まったくあの男は、手が早いと言うか何と言うか。四月なんて、まだ会って間もない頃だろうに……。思わず舌打ちしてしまう。

「初めての相手が、男の子で良かったの?」

「嫌ではなかったんですけど……」

「今日も、仲良しさんだったもんね。付き合ってるの?」

「いえ、それが、なんと言うか……」

「あら、なぁに? 恋の悩みだったら相談に乗るよ?」

「フェスで優勝したら、付き合ってもらうっていうか……」

「え、なにそれ。条件つき!?」

 微笑ましくて、思わず吹きだしてしまう。

「笑わないでくださいよ……」

「いや、ヒデくんにしては、ノンびりした話だと思ってさ」

「少し時間が欲しいって言ってました」

「あら、どうかしたの?」

「気持ちの整理が必要って……」

 五月に食事をしたときも、確かそんなことを言っていた。

 今は恋愛の気分じゃないのだとか何だとか。

「それに、あの……」

 ジュンが申し訳なさそうに、チラチラとサアヤを見遣る。

「五月の連休に、ヒデさんと歩いてましたよね。アウトレットモールで」

「え、なに? 見られてたの!?」

「二人はその、やっぱり……そういう関係なんです?」

「やだ、違うよ。ご飯食べにいっただけ。それだけよ」

 無理やりホテルに連れ込んだことは、黙っておいたほうが良さそうだ。彼の悩みを、これ以上増やす訳にはいかない。

「仲よさそうだったから、てっきりそうなのかと……」

「違う違う。ヒデくんはアタシのことなんか、恋愛対象として見てないよ」

 これは本当のことだ。悔しいけれど……。

「少なくともさ、ヒデくんが君を気に入ってるのは本当だと思うよ」

 ブラシで頬にチークを乗せながら、さてどう伝えたものかと思案する。

「彼は彼でさ、うーん、そうだな、いろいろと決めかねてるんじゃないかな。シドくんと付き合ってたのは知ってるんだっけ? あの頃はだいぶ荒れてたしね。やっと落ち着いて、君と出逢って、今までと違う穏やかな関係に戸惑ってるんじゃないかな」

「戸惑って……ですか」

「いいじゃない、焦らなくても。ジュンくんとヒデくんの、二人のペースで仲よくなっていったらいいんじゃないかな」

 サアヤの言葉に、ジュンが微笑んでうなづく。

 いじらしい子だ、心の底から応援したくなってしまう。

「さて、あとは口紅を塗ればメイクは完成だよ」

「どうなってるか、楽しみです!」

「でもその前に、ちょっと目を閉じてくれるかな」

 言われるがままに、ジュンが目を閉じる。

 小さな悪戯心、または嗜虐心。

 もしくは恋に悩む青年へのエール。

 あるいはヒデが恋慕する彼への嫉妬。

 ジュンの唇にそっと、自らの唇を重ねる。

「……サアヤさん!?」

「毒よ。軽い毒」

 もの言いたげなジュンの唇を、サアヤがそっと指先で塞いだ。

 そして口紅を乗せた筆で、濃紅こいくれないに染め上げていく。

「可愛く仕上がってるからね。期待していいよ」

 メイクを終えたジュンに、衣装を手渡す。

 サアヤが高校の頃に着ていたゴシックロリータ。バンギャ時代のユニフォーム。一六八センチのサアヤの戦闘服。ジュンの身長ならば無理なく入るだろう。

「着替え、手伝ってあげよっか」

「ひ、一人で大丈夫です」

 慌てて背を向けて着替え始める。振り返って様子を伺う目が、怯えてるようにも見える。毒が効き過ぎただろうか。可愛らしくて、思わず頬が緩んだ。

「黒タイツ履くから脛の処理は要らないかな。胸は……そうだな、作らないでおこうか」

 思ったとおり、衣装のサイズはぴったりだ。この雰囲気ならウィッグは、ショートボブ……いや、ロングがいいかな。黒髪のストレートロングにしよう。

 髪をまとめ、ウイッグを被せる。ヘアピンで留めて、ブラシで整えてていく。

「予想以上の仕上がりだわ……」

「完成です?」

「うん。玄関に姿見が在ったでしょ。見ておいで。きっと驚くよ」

 初めてのスカートに戸惑いながら、ジュンが玄関へと向かう。元から所作の美しい子だ。充分に女の子の立ち振舞いに見える。

「どうかな? 可愛いでしょ」

 メイク道具を片付けながら、玄関に向かって声をかける。歓喜の声でも返ってくるかと思ったけれど返事がない。

「ジュンくん、どうかした?」

 様子を見に玄関へ向かう。ジュンは姿見を見詰めたまま、その場に立ち尽くしていた。サアヤの声など届かない様子で、鏡の中の自分に見入っている。

「ねぇ、大丈夫?」

「すごい……。自分じゃないみたい……」

 震える指先が、鏡へと伸びる。

「女の子だ……」

 鏡に映る自分の姿に指先が触れたとき、ジュンくんの瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。

「涙? ボク、泣いて……」

 後ろからそっと、ジュンを抱きとめる。

 手を取って、彼の胸の前で重ね合わせる。

 鼓動が手の内側に伝わってきた。

「ジュンくん、本当に可愛いよ。お人形さんみたいだ」

 一粒、二粒とこぼれ落ちる涙は、やがて止め処なくあふれて両頬を伝う。

「きっとね、ジュンくんは変わりたかったんだと思うよ。女の子になりたかったって意味じゃなくてさ。自分が可愛いんだってことを、ずっと認めたかったんじゃないかな」

 涙を流し続けるジュンと、鏡越しに見詰め合う。

「容姿をからかわれるたびに、女の子らしい部分は抑え込んできたでしょ? 自分の可愛らしさを、否定し続けてきたでしょ? 抑え込んできた部分がさ、ジュンくんの中の一部分がさ、やっと認めてもらえたって喜んでるんじゃないかな」

 ジュンの小さな嗚咽は、やがて慟哭へと変わる。

「気が済むまで泣けばいいよ。メイクは直してあげるから。落ち着いたら、ご飯食べに行こう。女の子のままでさ。ネイルも塗ってあげるよ。みんなに、可愛いジュンくんを見てもらおう」

 何度も何度も頷きながら、腕の中でジュンが泣きじゃくる。そんなに泣いたら、可愛い顔が台無しだ。

 くしゃくしゃに歪むジュンの泣き顔を、サアヤはとても美しいと思った。

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