第10話 未練の数(後編)

 五月雨さみだれが窓を打ち、ガラスの外面に幾筋もの流れを作る。流れの筋は合流しながら、そして分岐しながら滑り落ち、廊下からながめるキャンパスの景色を歪ませていく。

 昨日までの陽気から一転、太陽は厚い雲に閉ざされ暑さも一段落。それどころか、肌寒さを感じるほどの気温だ。今朝のニュースで、梅雨入りしたと報じられていた。しばらくは、雨が続くという予報だ。

 煙草を吸える場所を求めて、シドは一足先に軽音楽部のスタジオを出た。しかし雨に煙る校庭を見て面倒になり、飴を舐めてやり過ごすことにした。

「シドさんお待たせ。片付け終わったよ」

 スタジオを出たヒデが、シドに手を振る。その後ろで、ジュンとノリが「お疲れ様でした」と頭を下げて去っていった。最後にスタジオから出てきたユキホは、シドを一瞥しただけで、言葉なく走り去っていった。

「さぁ、どこ行く?」

「よかったのか? メンバー帰しちまって」

「いいも悪いも、俺に話があって来たんでしょ?」

「話ってか、顔が見たかっただけだよ」

「昔の男に会う暇があったら、今の恋人に会ってあげたらどうですかね」

「オマエ、嫌味っぽくなったな」

「誰のせいだと思ってるんですかね」

 オレのせいなのかと、シドが肩をすくめる。

 五月雨はいまだ降り止まず、窓ガラスを叩き続けている。二人並んで、学舎の長い廊下を歩く。玄関近くまで進んだとき、シドはキャンパスの片隅に咲く紫陽花に気づいた。

「そういや、アジサイ寺ってこの近くだっけ?」

「歩いて十分くらいかな」

「前にさ、雨の日にアジサイ寺に行きたいって言ってただろ」

「よく憶えてるね……」

「行くか? アジサイ寺」

 シドの提案に、突然ヒデが吹き出す。

「な、なにが可笑しいんだよ」

「だって、トゲトゲ革ジャケットのパンクスが、紫陽花を見にいこうって」

 そう言って、さらに笑い続ける。

「うるせぇよ。元はオマエが言いだしたことだろうが」

「そうだけど、いや、シドさんが紫陽花って」

「いい加減、笑うのやめろって」

「ごめん、ごめん。でも憶えててくれたなんて、ちょっと嬉しいかな」

「うるせぇよ」

「それじゃパンクス二人で、雨の紫陽花ツアーと洒落込みますか」

 正面玄関まで辿り着き、各々が傘をさして雨の校庭を歩き出す。どちらも愛用しているのはビニール傘。二人とも昔と変わっていない。


 参道の石畳に沿って隙間なく植えられた紫陽花が、アジサイ寺という名前の由来だ。紫陽花の数はおよそ二千株、入口の看板に書いてあった能書きをシドは思い返す。アジサイ寺というのは通称で、看板には立派な正式名称が書かれていた。しかし、神社仏閣に興味がないシドが、憶えているはずもなかった。

 山門へと続く参道は狭く、人がすれ違う程度の幅しかない上り坂だ。そこへ両側から紫陽花がせり出して咲き誇っているものだから、並んで歩こうと思えば自然と寄り添うことになる。

「シドさん。俺とくっつきたくて、ここに来たの?」

「ばっか。違げぇよ……」

 雨降り止まぬ中、二人は一本のビニール傘に肩を寄せ合っている。参道に入ると互いの傘が邪魔になり、ヒデが傘を畳んでシドの傘へと入った。自然な人懐っこさは、ヒデの魅力だ。付き合っていた頃は好ましく思ったものだが、今となっては胸の奥が鈍く痛むばかりだ。

「腕組んであげようか?」

「いらねぇし。黙って紫陽花でも見てろ」

 日没までにはまだ時間があるが、陽の光は雨雲に遮られすでに青い夕闇が迫っている。薄暮の中で淡藤色あわふじいろの紫陽花が雨に打たれる様は、シドの目にも美しく映った。ヒデが雨の日の紫陽花にこだわるのも、理解できる気がした。

 シドは口寂しさを覚えて煙草に手を伸ばしたが、喫煙にふさわしい場所とも思えず飴を取り出す。

「まだ飴持ってるんだ」

「食うか?」

 差し出された飴に、ヒデは首を横に振った。

「なんだか、余計なことまで思い出しそうだし……」

 六月の週末ともなればこの細い参道に人があふれ、前に進むこともままならない状況になる。しかし六月とはいえ雨の平日、しかも夕闇が迫る時間ともなれば人影もまばらだ。参道に入ったときに老夫婦とすれ違ったきりで、他に人の気配はない。

「やっぱり、雨に紫陽花って映えるよね」

「雨の外出を喜ぶの、オマエくらじゃねぇの?」

「好きなんだよ。いつもと同じ場所のはずなのに、まったく違った風景に見えるし」

「そうだったな。何度も聞いたよ、それ」

「何度も言ったけど、ビニール傘も好きだね。このパラパラと傘を打つ音が」

「はいはい。そうでした、そうでした」

 シドは実用性から、ビニール傘を選ぶ。雨をしのぐことができれば何でもいいし、無くしたときのダメージも小さい。

 反してヒデは、こだわりの最適解としてビニール傘を選ぶ。ハリのないビニールを打つ雨音が、他の傘よりも心地よいと思っている。同じ物を選んでいても、選ぶ理由は違う。

 音楽に関してもそうだ。二人ともパンクの音作りを基本にしているが、仕上がる音はまるで違う。激しさを追求して尖らせることで深化させようとするシドと、様々なジャンルの要素を取り入れ可能性を広げることで進化させようとするヒデ。根本の部分は同じでも、表現の手法がまるで違っていた。

 シドは思う。近い価値観を持つ二人だからこそ惹かれ合ったのだろうし、異なる部分を認め合うことで一年という時間を共に過ごすことができたのだと。

「新しいヴォーカル、いい奴を見つけたな」

「でしょ? ちょっとした奇跡ですよ。アイツ」

「オマエ、あんな可愛い感じの男、好みだっけ?」

「……」

「悪りぃ。そういうんじゃねぇよな」

「珍しいね、嫉妬してるの?」

「どうだろうな。解らねぇから、会いにきた」

「嬉しいけど、いまさらだよね」

「……そうだな」

 長い沈黙が続く。

 傘を打つ雨音が、シドの耳に大きく響いた。

 気まずさを誤魔化すため、新たに飴を舐める。個包装をやぶり口に放り込んだとき、再びヒデが口を開いた。

「でも、ジュンはノンケだし、恋愛にはならないかな」

「そんなこと、今まで関係なかったじゃねぇか」

「やめたんだよ、そういうの」

「なんで?」

「傷つけたり、傷ついたり、もう嫌になったから」

「それも、オレのせいか?」

「シドさんは一人の恋人に縛られる人じゃないし、俺は自分でも意外なほど嫉妬に囚われてたってだけ。当てつけるようにいろんな人と付き合ってみたけど、皆を傷つけて、自分も傷ついて、残ったのは虚しさだけだったって……それだけの話かな」

「それで全てを捨てたってか。俺も含めて」

「さすがに自分が嫌になったよ。それでもまた人を好きになるようなことがるのなら……そのときは一人の相手と、きちんと向き合いたいと思ってる」

「オマエだって、一人に縛られるようなヤツじゃないだろ?」

「そうかも知れないけど、それでも同じ過ちは繰り返したくないかな」

 いつしか二人は、山門までたどり着いていた。

 ひさしの下に入って傘を閉じる。本堂へと続く門は固く閉ざされ、境内の参拝時間がすでに終わっていることを示していた。

 肩を並べて、山門にもたれかかる。

 来た道を見下ろすと、なだらかな登り坂に沿って咲く紫陽花が、薄闇の中に浮かぶ灯籠とうろうのように見えた。いくつもの淡藤色の灯籠が、眼下に煙る街の明かりへと連なっている。

「未練、あるんだろ?」

「あるよ。嫌いで別れた訳じゃないし」

「だったら、戻ってこいよ」

「珍しいね。そんなこと言うなんて」

「二度と言わねぇからな」

「シドさんでも、未練を感じたりするの? まさか会いに来るなんて、思ってもみなかったよ。だいたい、こういうことする人じゃ……」

「うるせえ! 戻ってこいって言ってんだよ!」

 強引に抱き寄せて、唇を重ねる。

 ヒデは抵抗して身をよじったが、やがて緊張を緩め体を預ける。舌を絡ませる代わりに、シドは舐めていた飴をヒデの口へと押しこんだ。

「その飴、好きだっただろ?」

「……こんなの、ずるいよ」

「何が?」

「こういうのに弱いって、知ってるくせに……」

「そうだったか? 少し会わない間に忘れちまったな」

 ヒデの瞳が潤む。

 目じりに溜まった涙に唇を付け、シドはふたたび唇を重ねた。

「なぁ、戻ってこいよ」

「初めてだよね、そんなこと言ってくれるの。去る者を追う人じゃないのに……」

「自分でも驚いてるよ」

「……でも、戻らない」

「なんでだよ」

「戻ってもきっと、同じことを繰り返すだけだし。もしも俺だけに向き合ってくれるのなら……そんな風にも思ってみたけど、そんなの俺が好きなシドさんじゃないし」

「解んねぇな」

「だろうね」

 シドの腕をほどき、ヒデは再び山門にもたれかかる。

「未練の数はきっと、俺の方が多いよ……」

「だったら戻ってくれば、いいじゃねぇか」

 ヒデが首を横にふる。そして、シドに向きなおる。

「できることなら、かつての恋人として仲よくして欲しいかな。もしも顔を合わせるのが辛いのなら距離を置くけど。でも、会えなくなるのは嫌かな」

「オマエは大丈夫なのかよ。未練を抱えたまま、そんな関係でいられるのかよ」

「耐えられないかもしれないけど、それでもやっぱり戻ることなんてできないよ」

「オマエの言うことは、さっぱり解らねぇな」

「だろうね」

「でも、まぁ……」

 ヒデを引き寄せ、耳元に口を寄せる。

「それでもやっぱり、オマエは俺のもんだよ」

 ささやいて耳たぶを噛み、ピアスのまわりに舌を這わせる。

「……なにそれ」

「さぁ? 俺にも解らねぇよ」

 ヒデが笑う。つられてシドも笑い出す。

「いいんじゃないかな。シドさんらしい……」

 気がつけば既に夜の帳が降り、周囲はすっかり闇に沈んでいた。

 雨は止む気配がないが、いつしか小降りになっていた。

 闇ごと包み込むかのように、柔らかな夜雨よさめはいつまでも降り続いていた。

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