第09話 未練の数(前編)
日差しから逃げるように、一人の男が影から影へと伝い歩いていく。西に傾いたとはいえ、日はまだ高く影は短い。
この時期の晴天のことを、
六月に入ってだいぶ経つが、晴天ばかりが続き梅雨どころか雨の気配すらない。梅雨をすっ飛ばして、夏になってしまったような陽気だ。男は暑さが嫌いではなかったが、スタッズジャケットと革パンツの出で立ちには辛く感じる。ベースを担ぐ背中に、じっとりと汗がにじんでいた。
アパートまで辿り着き、外階段を駆け上がる。自室のドアの前でポケットを探る。指先が小銭の中から部屋の鍵を探り当てたとき、ドアの向こうに人の気配を感じた。
「ユキホ、来てんのか?」
そう言いながらドアを開ける。
「アニキお帰り。邪魔してるよ」
ワンルームの部屋の奥、二十一インチのテレビ画面を凝視したままユキホが応えた。ゲーム機のコントローラーを握り、落ち物パズルに熱中している。
表情に余裕がない。いや、必死の形相と言った方が適当か。
シドは高校を卒業してすぐ、実家を出てこのアパートを借りた。もしものために妹のユキホにスペアキーを預けているが、それをいいことに勝手に上がり込んでくつろいでいる。ユキホにしてみれば、都合のいい避難場所ができたといったところか。
「オマエ、バンドの練習あるんじゃねぇの?」
「今日は自主練」
「自主練って、ゲームしてんじゃん」
「暑いのに、ドラムなんか叩いてられますかって」
「サボリじゃねぇか……」
暑いからなんて理由で、練習をサボるようなヤツでは決してない。そんなことは兄であるシドが一番よく知っていた。何か事情があるのだろう。妹のデリケートな事情なんて、立ち入るべきではない。面倒事に巻き込まれるのはご免だと思い、シドは口をつぐんだ。
画面の中では、グミのような落ち物がどんどん積みあがっていた。そしてあっという間に、ゲームオーバーの文字が画面に踊った。
「もう、アニキのせいで失敗したじゃん」
「何でオレのせいなんだよ」
「大事なところで話しかけるから」
理不尽極まりないと、シドが肩をすくめる。
ベースをスタンドへ納め、ジャケットを脱ぎ捨てる。冷蔵庫から一.五リットルの炭酸水を取り出し、グラスに注いで一気にあおる。
「オマエも飲む?」
「炭酸はいいから、対戦しようよ」
「嫌だね。下手すぎて相手にならん」
「可愛い妹のお願いなのに?」
「可愛くても、可愛くなくても、嫌なものは嫌なの」
ユキホの分の炭酸水を注ぎ、テーブルに置く。礼も言わずに一気に飲み干し、空になったグラスが音を立ててテーブルへ戻された。機嫌を損ねてしまったのか、それとも元から機嫌が悪かったのか……シドは再び肩をすくめた。
仕方がないとばかりにシドはユキホの隣りに座り、コントローラーを手に取る。
「一回だけだぞ」
溜息混じりに釘を刺す。しかしシドは解っていた。負けず嫌いのユキホを相手に、一回で済むはずがないことを。
「相変わらず、妹に甘いね。アニキ」
「うるせぇよ」
ゲームが始まり、画面の上から四色のグミが次々に落ちてくる。序盤から早速、ユキホ側の画面にばかりグミが積みあがっていく。
「そう言えば、あの関西のバンド。なんだっけ、去年のフェスで優勝した……」
「……アウスレンダー?」
「そう、それ。対バンするんだってな。来週だっけ?」
「昨日まで遠征してた人が、よくご存知で」
ワンボックスカーに楽器と機材ついでにメンバーを詰め込んで、一ヶ月ばかり関西のライブハウスを回っていた。遠征だツアーだと言えば聞こえはいいが、一番しっくり来る言葉は『ドサ回り』じゃないかとシドは思っている。
「キラービーに寄ったら、アキが大喜びしてたぞ。オマエらのおかげで大儲けだって」
「おかげで初ライブが、面倒なことになっちゃったよ……」
シドは、アウスレンダーのことを好意的に捉えていた。
「まぁ、気楽にやれや……」
そうは言ってみたものの、相手はかなりの覚悟をもって乗り込んでくるはずだ。気楽にやって、勝てるような相手ではないだろう。
「うん。でも、やるからには勝ちたいよ……」
ユキホ側の画面がグミで一杯になり、勝敗が決する。当たり前のようにメニューの『もういちど対戦する』が選ばれ、再びゲームがスタートした。
「そういやバンド名、付け直したんだってな」
「メンバー変わったから付け直すって。ヒデくんが」
「なんだっけ。幻想だっけ、夢想だっけ……」
「空想だよ。空想クロワール」
クロワールは、フランス語で『信じる』という意味だ。つまり、想い描き信じる……深読みするならば、想いえがき信じ抜くことで現実のものとする。ヒデならば、それくらいの意味を込めているだろうと、シドは思った。あいつらしいネーミングだとも……。
「ジュンちゃんの歌もサマになってきたし、今いい感じかな」
「ジュンって、オマエの幼馴じみの?」
「そうだよ。ヴォーカルで入ったの」
「目立ちたがりのヒデが、よくヴォーカルを譲ったもんだな」
「譲ったってか、自ら勧誘してたよ?」
「そこまでの逸材なのか?」
「あの二人は仲良しだからね。ワタシとしては応援してる訳よ。アニキには悪いけどさ」
「ヒデって可愛い系の男、好みだっけ?」
「それ、アニキの方が詳しいでしょ……」
会話を交わす間にもユキホの画面はグミで埋め尽くされ、そして当たり前のようにゲームが再開される。無駄だと知りながら、シドは「連鎖を仕込まないと勝てないぞ」とアドバイスをしてみたが当然のように無視された。
「この回が終わったら、一旦抜けるからな」
「なんで?」
「飴食いたい」
「子供か……」
ユキホが部屋に居るとき、シドは煙草を控えるようにしている。
街に出ても、禁煙を強いられることが多くなった。吸えない口寂しさを紛らわせるため、いつの頃からか飴を持つようになった。
「アニキ、あーん」
画面をにらんだまま、ユキホが中途半端に口を開けている。どうやら飴を寄越せというアピールだと気づき、シドが溜息を吐く。
「あーんじゃねぇよ。自分で取れよ」
「飴取ってたら、ゲーム失敗するじゃん」
「一時停止しろよ」
「解ってないなぁ。こういうのは、リズムが大事なの。止めたらリズムが狂うじゃん」
さすがはドラマーと言いたいところだが、ゲーム下手が言っても説得力がない。
「飴、はよぉ。あーん」
仕方なく個包装を破り、シドが飴をつまむ。半開きの口に放り込もうとしたが思い直し、ユキホの口の前で飴を振る。
「ほらほら、アメはココだぞ。ほらほら……」
「馬鹿やってないで早く!」
なおも振り続けていると、不意にユキホが飴にかじりついた。シドの指ごと。
「ちょ! 痛いって!」
あわててシドが指を引き抜く。ユキホはしばらく口の中で飴を転がしていたが、やがて音をたてて噛み砕いてしまった。
「あーあ、来週はライブかぁ……」
何事もなかったかのように、ユキホが話を続ける。
「ライブ前の大事なときに、なんでこんなトコで腐ってるんだよ」
ユキホのTシャツの端で、こっそりと指先を拭きながら言った。
触れずにおこうと思っていたが、うっかり訊いてしまった。
「アニキには、関係ない」
「相変わらず素直じゃないのな」
「……そんなことないし。てか、仕方ないじゃん。アニキの妹なんだしさ」
「俺は素直だっつーの」
「意地張って、ヒデくんと別れちゃったくせに?」
「それこそ、オマエには関係ねぇよ」
一年ほど付き合っただろうか。別れの原因として、シドは思い当たる節がない訳ではない。むしろありすぎて、どれだか判らないくらいだ。
来る者は拒まず、去る者は追わず。ヒデの意思を尊重したと言えば聞こえはいい。しかしその実なぜ離れていったのか解らず、勝手にしろと突き放したようなものだった。
「久しぶりに、ヒデの顔でも見にいくか……」
ゲーム中だと言うのに、ユキホが画面から目を離してシドを見詰める。画面の中では次々とグミが積み上がり、あっという間にゲームオーバーの文字が表示された。
「練習を見に来るとか、言わないよね?」
さすがは我が妹、察しがいい。そう思いシドが苦笑する。
「いいだろ? 母校訪問だよ」
「やだよ。ワタシがヒデくんに怒られるじゃん」
「いいじゃねぇか。オマエには関係ないだろ?」
「そっとしといてあげなよ、ヒデくんのこと」
「飴、もう一個やるからさ。ヒデに取り次いでくれよ」
「えー。要らない」
「なぁ、頼むよ」
「……」
「いいだろ?」
頼まれると、嫌とは言えない性格だ。頼み込むまでもなく、少しだけ強く押せば大抵の願いは聞いてくれる。
飴を一粒つまみ、ユキホの口元へと運ぶ。
「ほら、飴やるからさ。口開けろよ」
少しだけ開かれたユキホの口の中へ、飴を押し込む。口の中でカラカラと転がす音が聞こえたが、今度は噛み砕かれることはなかった。
「明日、合わせあるから、夕方に校門からメッセ入れて。それまでに話しとくから」
「ありがとな。もう一回、対戦するか?」
「もう、調子いいんだから……」
再び二人して、コントローラーを握る。再び画面の上から、四色のグミが降りはじめる。
「そういやアニキ、明日から雨だってさ」
「マジか。飴なら今、舐めてるけどな」
「そういうの、要らないから……」
「オマエの画面、グミが土砂降りだけどな」
「そういうのも、要らないから……」
その後、十回以上対戦してユキホが勝利することは一度もなかった。
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