第09話 未練の数(前編)
日差しから逃げるように、一人の男が影から影へと伝い歩いていく。西に傾いたとはいえ、日はまだ高く影は短い。
この時期の晴天のことを、
男の中に、不意に懐かしさがこみ上げてくる。子供の頃たしか、学校の帰り道にこうやって影を伝って歩いていた。あの頃は、影をふむこと自体が楽しかったはずだ。今では、暑さをさけるためだけに影をふんでいる。
アパートまでたどり着き、外階段をかけあがる。自室のドアの前でポケットをさぐる。指先が小銭の中から部屋の鍵をさぐり当てたとき、ドアの向こうに人の気配を感じた。
「ユキホ、来てんのか?」
そう言いながらドアを開ける。
「アニキお帰り。邪魔してるよ」
ワンルームの部屋の奥、二十一インチのテレビ画面を凝視したままでユキホがこたえる。ゲーム機のコントローラーをにぎり、落ち物パズルに熱中している。表情に余裕がない。いや、必死の形相と言った方が適当か。
シドは大学を卒業してすぐ、実家を出てこのアパートを借りた。もしものために妹のユキホにスペアキーをあずけているが、それをいいことに時おり勝手に上がりこんでくつろいでいる。ユキホにしてみれば、都合のいい避難場所ができたといったところか。
「オマエ、バンドの練習あるんじゃねぇの?」
「今日は自主練」
「自主練って、ゲームしてんじゃん」
「暑いのに、ドラムなんて叩いてられますかって」
「サボリじゃねぇか……」
暑いからなんて理由で練習をサボるようなヤツでは決してない……そんなことは兄であるシドが一番よく知っていた。なにか事情があるのだろう。しかしデリケートな妹の事情なんて、立ち入るべきではない……面倒事に巻き込まれるのはごめんだと思い、シドは口をつぐんだ。
画面の中では、グミのような落ち物がどんどん積みあがっていた。そしてあっという間に、ゲームオーバーの文字が画面におどる。
「もう、アニキのせいで失敗したじゃん」
「何でオレのせいなんだよ」
「大事なところで話しかけるから」
理不尽きわまりないと、シドが肩をすくめる。
ベースをスタンドへおさめ、ジャケットを脱ぎすてる。冷蔵庫から一.五リットルのコーラを取り出し、グラスに注いで一気にあおる。喉を刺す炭酸の刺激が心地いい。
「オマエもコーラ飲む?」
「コーラはいいから、対戦しようよ」
「嫌だね。下手すぎて相手にならんし」
「可愛い妹のお願いなのに?」
「可愛くても、可愛くなくても、嫌なものは嫌なの」
ユキホの分のコーラを注ぎ、テーブルに置く。礼も言わずに一気に飲み干し、空になったグラスが音を立ててテーブルへ戻された。機嫌を損ねてしまったのか、それとも元から機嫌が悪かったのか……シドは再び肩をすくめる。
仕方がないとばかりに、シドがユキホの隣りにすわ、コントローラーを手にとる。
「一回だけだぞ」
ため息まじりに釘をさす。しかしシドは解っていた。負けず嫌いのユキホを相手に、一回ですむ訳がないことを。
「相変わらず、妹に甘いね。アニキ」
「うるせぇよ」
ゲームが始まり、画面の上から四色のグミが次々に落ちてくる。序盤から早速、ユキホ側の画面にばかりグミが積みあがっていく。
「そう言えば、あの関西のバンド。なんだっけ、去年のフェスで優勝した……」
「……アウスレンダー?」
「そう、それ。対バンするんだってな。来週だっけ?」
「昨日まで遠征してた人が、よくご存知で」
ハイエースに楽器と機材ついでにメンバーを詰め込んで、一ヶ月ばかり西のライブハウスを回っていた。遠征だツアーだと言えば聞こえはいいが、一番しっくり来る言葉は『ドサ回り』じゃないかとシドは思っていた。
「キラービー寄ったら、アキが大喜びしてたぞ。オマエらのおかげで、大儲けだって」
「おかげで初ライブが、面倒なことになっちゃったよ……」
シドは、アウスレンダーのことを好意的にとらえていた。あいつらはアウェイに乗り込んで、見事に優勝をさらっていったのだ。そう、敵意に満ちたオーディエンスを、自分たちの音楽でねじ伏せたのだ。そして再び、この柚子崎に乗りこもうとしている……。
アウェイでステージに立つ者の気持ちは、シドには痛いほど解る。昨日までの一ヶ月間、さんざん味わい続けてきたのだから。初めてのライブハウスに立つときの、あの露骨に値踏みするオーディエンスの視線……。シドたちは示さなければならなかった。オマエたちの期待を超える音がここにあるのだと。シドたちは証明しなければならなかった。オマエたちを熱狂させるパフォーマンスがここにあるのだと。
「まぁ、気楽にやれや……」
そうは言ってみたものの、相手はかなりの覚悟をもって乗り込んでくるはずだ。気楽にやって、勝てるような相手ではないだろう。
「うん。でも、やるからには勝ちたいよ……」
ユキホ側の画面がグミで一杯になり、勝敗が決する。当たり前のようにメニューの『もういちど対戦する』が選ばれ、再びゲームがスタートした。
「そういやバンド名、つけ直したんだってな」
「メンバー変わったから付け直すって。ヒデくんが」
「なんだっけ。幻想だっけ、夢想だっけ……」
「空想だよ。空想クロワール」
クロワールは、フランス語で『信じる』という意味だ。つまり、想いえがき信じる……深読みするならば、想いえがき信じ抜くことで現実のものとする。ヒデならば、それくらいの意味を込めているだろうと、シドは思った。あいつらしいネーミングだとも……。
「ジュンちゃんの歌もサマになってきたし、いまいい感じかな」
「ジュンって、オマエの幼馴じみの?」
「そうだよ。ヴォーカルで入ったの」
「あいつ、歌えんのか? あのナヨっとしたヤツだろ?」
「ジュンちゃんのこと、悪く言わないでよね……」
「怒んなって。しかし、あの目立ちたがりのヒデが、よくヴォーカルをゆずったもんだな……」
「ゆずったってか、みずから勧誘してたよ?」
「そこまでの逸材なのか?」
「ま、あの二人は仲良しさんだしね。ワタシとしては、応援してる訳よ……。アニキにゃ悪いけどさ」
「ヒデって可愛い系の男、好きだっけ?」
「それ、アニキの方が詳しいでしょ……」
会話を交わす間にもユキホの画面はグミで埋め尽くされ、そして当たり前のようにゲームが再開される。無駄だと知りながら、シドは「連鎖を仕込まないと勝てないぞ」とアドバイスをしてみたが当然のように無視された。
「この回が終わったら、一旦抜けるからな」
「なんで?」
「アメくいたいだよ」
「子供か……」
シドが抜けた後も、ユキホは一人でゲームを続けていた。バッグの中からアメの袋を取り出し、パインアメを一粒つまみ出す。包装を破り口の中へ放り込むと、甘酸っぱい香が鼻に抜けた。
ユキホが部屋に居るとき、シドは煙草をひかえるようにしている。街に出ても、禁煙を強いられることが多くなった。吸えない口さみしさを紛らわせるため、いつの頃からかアメを持つようになった。
「アニキ、あーん」
画面をにらんだまま、ユキホが中途半端に口を開けている。どうやらアメをよこせというアピールだと気づき、シドがため息をつく。
「あーんじゃねぇよ。自分で取れよ」
「アメ取ってたら、ゲーム失敗するじゃん」
「一時停止しろよ」
「解ってないなぁ。こういうのは、リズムが大事なの。止めたらリズムが狂うじゃん」
さすがはドラマーと言いたいところだが、ゲーム下手が言っても説得力がない。
「アメ、はよぉ。あーん」
仕方なく個包装を破り、シドがアメをつまむ。半開きの口に放り込もうとしたが思い直し、ユキホの口の前でアメをふる。
「ほらほら、アメはココだぞ。ほらほら……」
「馬鹿やってないで早く
なおも振り続けていると、不意にユキホがアメにかじりついた。シドの指ごと。
「ちょ! 痛いって!」
あわててシドが指を引きぬく。ユキホはしばらく口の中でアメを転がしていたが、やがて音をたててかみ砕いてしまった。
「あーあ、来週はライブかぁ……」
何事もなかったかのように、ユキホが話を続ける。
「ライブ前の大事なときに、なんでこんなトコで腐ってるんだよ」
ユキホのTシャツの端で、シドがこっそりと指先をふきながら尋ねた。触れずにおこうと思っていたが、つい口をついて訊いてしまった。
「アニキには、関係ない」
「相変わらず素直じゃないのな、オマエ」
「……そんなこと、ないし。てか、仕方ないじゃん。アニキの妹なんだしさ」
「俺は素直だっつーの」
「意地はって、ヒデくんと別れちゃったくせに?」
「それこそ、オマエには関係ねぇよ……」
二人は一年ほど付き合っただろうか。ヒデからシドと距離をとった。別れの原因として、シドは思い当たるフシがない訳ではなかった。むしろありすぎて、どれだか判らないくらいだ。
来る者は拒まず、去る者は追わず……ヒデの意思を尊重したと言えば聞こえはいい。しかしその実、なぜ離れていったのか解らず、勝手にしろと突き放したようなものだった……。
「久しぶりに、ヒデの顔でも見にいくか……」
ゲーム中だと言うのに、ユキホが画面から目を離してシドを見つめる。画面の中では次々とグミが積みあがり、あっという間にゲームオーバーの文字が表示された。
「うちの練習に来るとか、言わないよね?」
さすがは我が妹、察しがいい……そう思いシドが苦笑する。
「いいだろ。母校訪問だよ」
「やだよ。ワタシがヒデくんに恨まれるじゃん」
「いいじゃねぇか。オマエには関係ないだろ?」
「そっとしといてあげなよ、ヒデくんのこと」
「パインアメ、もう一個やるからさ。ヒデに取り次いでくれよ」
「えー。要らない」
「なぁ、頼むよ」
「……」
「いいだろ?」
頼まれると、嫌とは言えない性格だ。首を縦に振るまで頼み込むまでもなく、少しだけ強く押せば大抵の願いは聞いてくれる。
パインアメを一粒つまみ、ユキホの口元へと運ぶ。
「ほら、アメやるからさ。口あけろよ」
少しだけ開かれたユキホの口の中へ、パインアメを押しこむ。口の中でカラカラと転がす音が聞こえたが、今度はかみ砕かれることはなかった。
「ヒデくん、怒っても知らないからね」
「解ってるって。その辺は、ちゃんとするからさ」
「明日、合わせあるから、夕方に校門からメッセ入れて。それまでに話しとくから……」
「ありがとな。もう一回、対戦するか?」
「もう、調子いいんだから……」
再び二人して、コントローラーを握る。再び画面の上から、四色のグミが降りはじめる。
「そういやアニキ、明日から雨だってさ」
「マジか。アメなら今、舐めてるけどな」
「そういうの、要らないから……」
「オマエの画面、グミが土砂降りだけどな」
「そういうのも、要らないから……」
その後、十回以上対戦してユキホが勝利することは一度もなかった。
(つづく)
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