017. 解決

「どういうことよ、全然おしまいじゃないじゃない!」

「何でだ?」

「肝心なことがわかってないし、全然納得できない。」

「いや、俺が野球部をやめた経緯は全部話した。」

「そうじゃない、第一、同じクラスの何とかって男子のことはどうでもいいのよ。最後の方なんて、ほとんどそいつのことばっかりだったじゃない。」

「俺たちの堅い絆の話に胸を打たれただろう。」

「バカじゃないの? あなたがそういう趣味なら、ご自由にどうぞ。でも、わたしはそんなことが聞きたいんじゃない。」


 わかってる、わかってるって。


「つまり、誰がグローブを切り裂いたか、ってことだろ。」


 そうよ――。


 江坂ゆきのはまっすぐに僕の目を見る。

 江坂の目は、その髪と同じくらい澄んだ綺麗な漆黒だった。今まで気がつかなかった。僕はそこに吸い込まれていきそうになる。


「それに、どうしてあなたが野球部をやめなければならなかったのか、それも全然納得いかない。」

「一つ目の疑問については、答えは簡単だよ。さっきも言った通り、これはそれほど大層な謎じゃない。部室に入ったのは俺だけだった。だが、俺は犯人ではない。なら引き裂くことが可能なのは一人だけだ。」


 江坂は、もったいをつけるな、と僕をにらむ。


「つまり、先輩の自作自演だったんだよ。」


 あ――。そうか。


「先輩はあらかじめ自分のグローブを引き裂いていて、ただトレーニング終わりにそれを取り出したんだ。そこで騒ぎ立てれば、自然と僕が怪しい、ということになる。その日がグローブを使わない練習なことは決まっていたし、僕が委員会で練習に遅刻することも前日には話してあった。」

「でも、なんのために――」

「さっきも言ったように、僕はレギュラーで、先輩は控えだった。三年生は夏には引退する。それまでに何とかして試合に出たい、と思うのは自然なことだろう。僕がいなくなれば、うまくすればその先輩が、そうでなくとも僕でない誰かが、レギュラーになる。」

「そんなことして、試合に出たって、何の意味もないでしょ。」

「俺だってそう思う。でも、何をしてでも試合に出たい、と思うことだって、別におかしいことじゃないんだ。俺には結局、そういう執着が理解できなかったけど。」

「わたしにだって理解できない。」


 僕は、江坂から意外にも素直な共感を得たことに少し驚いた。当たり前のことだが、コイツも誰かに共感を示すことがあるのだ。


「まあ、直接先輩に聞いたわけじゃないから、想像でしかないんだけど。」


 これはついでに、と僕は付け足す。


「これは想像、というか辻褄合わせに俺がつくった物語、お話でしかないけど、おそらく先輩はそれほど計画的にその事件を起こしたわけではないと思う。最初から本気で俺を追い出すことが目的なら、他にやりようはいくらでもあっただろう。俺を標的にすることだってできた。おそらく先輩は、発作的にグローブを引き裂いて、そのあと、咄嗟に俺に罪をきせることを思いついたんだ。」

「何だって発作的に自分のグローブを引き裂くのよ。」

「これはヨシから後で聞いたことだけど、その日、先輩は昼休みに顧問に直訴に行っていたらしい。必死に練習してきた三年をレギュラーに使ってもらえないかって。しかし、顧問はそれを拒否した。顧問はそれほど人情味のあるタイプではなかったんだ。」

「あくまで実力でレギュラーを選んでいた、ということね。」


 そうだ、と僕はうなずく。だからこそ、それほど真面目とはいえないものの、小器用な僕がレギュラーに選ばれていたのだろう。


「先輩は納得できなかったんだろう。どうしようもなくて、おそらく、誰もいない部室で自分のグローブを切り裂いた。きっとそのとき、部活の練習メニュー表と、僕の遅刻が記された出欠表が並んで壁にはってあったのを見たんだ。」


 これが、この話、野球部室の怪事件にまつわる話のすべてだ。


「たしかに、真相を知ると、こんなものかしら、って感じね。」

「だから言っただろ、これはそんな大層な話じゃないって。」

「でも、まだ疑問は残ってる。それほど真相がわかっていて、どうしてそれを直接突きつけなかったの? どうしてあなたが部活をやめなければならなかったの?」


 江坂はまっすぐに僕を見つめて問いかけてくる。斜め向かいに座っていた椅子からほとんど身を乗り出さんばかりで、ものすごい圧力を感じる。


「証拠はなかったし、それにさっきも言ったように、俺にはわからなかったんだ。グローブを引き裂いてまで、試合に出たいと思う先輩の気持ちが。理解できなかった。人に罪を着せてまで、何かを勝ち取りたいと思う人の気持ちが。俺にはわからなくなった、自分がそれを妨げる権利があるのか。」

「でもあなたの方がうまかったんでしょ? そしたらその時点であなたはその権利を持っているじゃない。」


 江坂の論理は実に単純明快だ。当時、身近に江坂のような人間がいれば、僕は部活をやめることなく、続けていただろうか? わからない。


「怖かったんだよ。」

「――何が?」

「そこまでして何かを手に入れようとする、人間の情念のようなものが。理解できず、ただ恐ろしかった。だから先輩に直接問いただすことができなかったんだ。」


 何かを考え込むように、江坂は少しうつむいた。


「でも、理解はできなかったけど、別に先輩を恨んではいなかった。部活をやめる直接の原因になったのは、むしろそのあとも残り続けた周囲の人間の俺に対するイメージだったと思う。集団のなかで、ある種のイメージがつくられると、それは拡大されて固定されてしまう。それは簡単に誰かが断ち切れるものではなくなってしまうんだ。」

「どういうこと?」

「おそらく、部員のなかにも先輩の自作自演に気がついていた人がいたはずなんだ。なにしろ、それほど手の込んだトリックではないからね。少なくとも違和感をもっている人はいた。だけど、一度俺が犯人だ、という空気ができてしまうと、それを覆すことはとても難しいんだ。一度そういう空気ができてしまうと、口には出さなくとも、みんな俺が犯人だ、ということを当たり前のように受け入れはじめる。誰もそれを壊そうとはしない。そういうこと全部が俺には耐えられなかったんだ。」


 江坂の目は、何かを考えるように、そして心のなかに染み込ませるように、伏せられている。


「言うなれば、俺にとっては、こっちの方がずっと奇譚だった。部員たちにもおかしいと思ってた人はいたはずなのに、一度その場の雰囲気ができると、俺を犯人のようにして当たり前に世界が進んでいた。それは、俺にとっては、不思議で、奇怪で、そして恐ろしい話だったんだ。」


 これで、俺の奇譚は本当に終わりだ。


「ちがう――」

 かすかに江坂の声がした。え、と聞き返す。

 江坂ゆきのは、顔をあげて、まっすぐに僕のことを見た。


「わたしはちがう。」


 瞳が燃えるように、一瞬輝いた。


「わたしは、そこで黙ったりしない。わたしは、そんな場の空気とか、雰囲気なんて受け入れたりしない。」


 江坂は、宣言した。そう、それは本当に宣言のようだった。


「ありがとう。」


 どうしてかはわからないが、気がついたらそう言っていた。それがこの場に適切な言葉なのかどうかはわからなかったが、そんなことはどうでもいい。


「まあ、後味は少し悪いけど、興味深い奇譚ではあったわ。」


 江坂は少し照れたようにして言う。なぜか上から目線で言われた気がするが、これくらいのことは気にしない。無益な争いは避けるのが今の僕の主義だ。


「それじゃ、ちょうどいい時間だし、屋台に行くか。」


 僕が長話をしているあいだに、もう下校時刻が迫っていた。

 江坂は少し考えていたが、

「今日はやめとく。」と言った。

 僕は驚いて、腹でもいたいのか、と聞く。


「うるさい。ただちょっと考えたいこともあるし、何となくそういう気分なのよ。」


 そうか。何とも変わったこともあるものである。


「じゃあ、今日はこれで解散ね。」


 いつになく覇気のない江坂ゆきののその言葉で、僕たちは部室をあとにした。

 僕はと言えば、長話の余韻で、逆にラーメンでも食べに行きたい気持ちだったのだが、これからまた毎晩行くかもしれないことを考えれば、節約が必要だと思い直して、そのまま家に帰ったのだった。

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