003. 江坂ゆきの
ドアを開けた瞬間、目の前にいた少女は、待ってました、と言わんばかりの表情で、僕のことを軽く見上げていた。
丸顔に切れ長の目、自信と利発さをあらわすように少し上がった口角。下ろした長い髪が彼女の身体の動きに合わせて、さっと揺れた。身長はそれほど大きくないが、挑みかかってくる小動物のような圧力を感じる。整った顔立ちは、美人と言えるだろうが、それよりも今は獰猛さにも近い活発さが顔の全体的な印象を支配している。
「あの、ここはSF研究会の活動場所じゃ……。」
「違う、ここは奇譚研究会の部室。」
きたんけんきゅうかい? 聞いたこともない。
僕は一応、教室の入り口に書かれた文字を読む。生物準備室。僕が教室を間違っているわけではない。
「僕はSF研究会の見学に来たんですが……。」
そう言うと、途端に彼女は興味をなくしたように、あっそ、と言って部屋の奥の方に戻り、椅子に座った。表情を支配していた野性味は引っこんで、つまらなそうに仏頂面で本を読み出した。僕はそれでやっと、その少女を見たことがあるのを思い出した。
「あの、江坂さんだよね?」
「誰?」
「中津圭一郎。一年E組、同じクラスなんだけど。」
江坂ゆきのは、怪訝そうに眉をひそめて僕の方を見つめる。入学して一週間程度、同じクラスだが顔を覚えていなくても仕方がないだろう。
「知らない。そんな名前、聞いたことない。」
江坂ゆきのは、腹立たしそうに断言する。なぜそんな人間の名前を思い出さなかればならないんだ、とでも言いたげである。いや、毎朝出席を取ってるんだから、名前くらいは聞いたことあるはずだろう。
「うるさい。とにかく聞いたことない。」
取り付く島もない。何だってコイツはこんなに喧嘩腰なのだろうか。
僕は、諦めて退散しようかと思ったが、せっかく重い腰をあげたのに、何の収穫もなしで帰宅するのは物足りない。僕が彼女の斜め向かいの席に座ると、江坂ゆきのは苛立たしげに言った。
「なんで帰らないのよ?」
「SF研究会の見学に来たんだ。待ってたら誰か来るかもしれないだろ?」
勝手にすれば、とでも言うように、ふんっ、と顔を背ける。
僕はとりあえず下校時刻まで本を読んで、SF研究会の会員が現れないか待つことにした。
江坂ゆきのも座って本を読んでいた。やはり、黙って本を読んでいると、活発な印象は消えて、均整のとれた美人風に見える。
彼女は、教室では物静かで大人しかった。一眼見て同じクラスの彼女だと気がつかなかったのはそのためだろう。中学からの知り合いもいないらしく、誰かと話しているのをほとんど見たことがない。最低限必要な会話はしているようだったし、同級生たちから疎外されているというわけでもなかった。ただ、彼女は自ら選んで一人でいるように見えた。たいていのときは、教室の自分の席で本を読んでいた。男子たちの間では、その容姿もあいまって、近づきがたい深窓の令嬢のように見られていた。
だから、さきほどの出来事は、実に意外だった。教室では猫をかぶっていたのだろうか。あるいは、僕のことを一眼で生理的に嫌悪して、何としてでも追い出したかったとか?
俄然、興味がわいてきた。
しかし、今考えるとそれが間違いだったのだ。結果的に、僕の中途半端な好奇心が、平穏な放課後を半永久的に奪い去っていくことになるのだから。
「さっき、奇譚研究会って言ってたけど、何の同好会なの?」
「私もよくわからないのよ。」
意外にも、江坂はきちんと答えてくれた。
「どういうこと?」
「二年の会員が一人いるらしいんだけど、そいつは幽霊部員なの。だから実質、会員はわたし一人。顧問にも聞いたけど、先生もよく何をしている部活なのか知らなかったわ。」
「よくそんな会が部活として存続しているな。」
「五年くらい前に誰かが立ち上げたけど、その人たちが卒業してからは、ほとんど活動実態もないらしい。先生方の間でも定期的に問題になっているらしいけど、なんの因果か、部員がゼロになることもなく、つぶすこともできないらしいわ。」
何でも、学則に部員がゼロで活動が二年間無くなると廃部、という決まりがあるらしい。
「ここはSF研究会の部室じゃないの?」
「SF研なら一回だけここに来たことがあったけど、うるさいから用がないなら出て行って、って頼んだら、いなくなったわ。それ以来見かけてないわね。だから、多分待っていても来ないわ。」
かわいそうに、SF研究会。
江坂ゆきのは、普段の教室での姿からは想像できないほど饒舌に、かつ明晰に事情を説明した。どうやらコイツが深窓の令嬢とは、男子諸君の目は曇っていたらしい。
「顧問は誰なんだ?」
「古典の花田、って先生ね。」
花田先生、聞いたことはある。比較的若い女性教師だ。吉徳が作成したS坂高校美人教師ランキングの第2位だか第3位だかにランクインしていた気がする。結構なことだ。というか、あいつは入学早々何をしてるんだ?
「事情はだいたいわかった。それで、江坂はなんでこの部活に?」
江坂は、と言ったところで、江坂は僕の方をきっ、と見る。呼び捨てが気に食わなかったのだろうか。
「変わったサークルを探して、生徒手帳の部活一覧を眺めてたら、たまたまこの部活が目についたのよ。わたし、普通の部活になんか入りたくないの。つまらない同級生と好きでもないスポーツをしたり、興味もない料理とか実験をするなんてバカげてる。そういうのって、全然わたし向きじゃない。」
「じゃあ一体、何がしたいんだ?」
「正直、わたしにもわからない。わたしに何が向いていて、何が面白いと感じるかなんて、そんなのまだ知らない。でも、奇譚、って奇妙で面白い話、って意味でしょ? ってことは、たぶん、この部活で探せば良いのよ。ここで自分が本当に面白いと思うものを探すの。」
そう言った江坂ゆきのの顔は、つまらなそうな能面はとっくに消え、野性的で、自信たっぷりに活発さを撒き散らす、そんな表情だった。つまり、渾身のドヤ顔だった。
コイツは、こんなにきらきらとした目をするのだ。それは、教室の隅でいつも本を読んでいる江坂からは想像もできなかったものだ。
何となく腹立たしいが、江坂が言うことは、僕も共感するところがあった。
自分が何に興味があって、何を面白いと思うか僕はわかっているのか?
いや、わからない。
候補だった三つの部活だって、特別興味があったわけじゃない。中学のころ入っていた野球部だって、別に心から野球が好きだったわけじゃない。だから、些細な出来事をきっかけにやめてしまったのだ。
そんなことを思って、僕は深く考えることもなく、こう口にしていた。
「俺もこの部活、入ろうかな。」
江坂は驚いた様子もなく、予想外に拒否する素振りも全く見せなかった。
ただ、さもそれが当然であり、はじめから決まっていたかのように、再びこう言い放った。曇りなく、自信満々な渾身のドヤ顔で。
「ようこそ! 我がS坂高校奇譚研究会へ!」
後悔先に立たず、とはよく言ったものであるが、急き立てられるように江坂に入部届を書かされ、会員に仕立て上げられたとき、すでに僕は後悔の念に包まれていた。
江坂の調子に乗せられ、ついその場の勢いで考えなしに入会してしまった。その会は、何をやるかも不明な怪しげな部活で、目下のところ部員は江坂ゆきのだけ。おまけにその江坂は、教室では深窓の令嬢といった様子なのに、実際にはどこかの専制君主ばりの唯我独尊ぶりである。早くも僕の平穏な放課後ライフには黄色信号が点り始めているのを感じた。
「じゃあ、これ顧問に出してくるから、今日は解散!」
「あの、やっぱり――」
「明日から放課後、毎日ここに来ること! いいわね。」
僕の最後の抵抗は華麗に無視され、江坂は職員室の方に駆け出していた。廊下を走らない、なんて小学生でも知っているルールを知らないのだろうか。
まったく、先が思いやられる。
そして、次の日から僕の不安はそのまま現実のものとなり、淡い後悔は、はっきりとした形をとって僕の平穏な放課後を脅かしはじめる。
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