ロジンバッグに手が伸びる

銀河

ロジンバッグに手が伸びる

 集中しろ…こんな時に…。ロジンを指につける。白い粉塵がマウンドに降る。汗が首筋を伝うのがわかる。7月の太陽は8月の太陽に次ぐ全高校球児の敵だが、いまの俺にとって一番の敵は野球へ集中できていない俺自身だ。


 味方ベンチでは1年の高津がこちらに檄を飛ばしている。まだ4回だが一打サヨナラ負けかのように叫んでいる。恐らく責任を感じているのであろう。1塁ベンチに背を向けているため表情はわからないが、ベンチに身を乗り出して声を上げているのがわかる。

 昨日調子の悪かった俺を外し、監督は背番号11の高津を先発させた。しかし、序盤こそ良かったもののこの回捕まって4失点。同点に追いつかれなおもワンアウト2塁という場面で高津はマウンドを降りた。

 監督は俺に、エースのお前がどうのこうのと発破をかけてこのマウンドへ送り出したが、何を言われたか覚えていない。それどころか投球練習も覚えていないし、その後キャッチャーの大川と交わした会話も覚えていない。気が付いた頃には外角に甘く入ったストレートをライト前にはじき返されていた。狭い球場に助けられ2塁ランナーは3塁で止まったものの、ピンチは広がった。

 

 野球に集中するんだ。いまはチームのピンチ、俺がここで流れを食い止めるんだ。

 

 サインを見る。内角低めストレートの要求。セットポジション。この夏磨いたクイックモーションによる投球。コンパクトな左半身の溜めから、弓矢のように右腕から放たれるボール。

 

 …逆球。

外角低めのボールを大川が身体で止める。ランナーは動かず。


 返球を受け、セットポジション。背中越しに1塁ランナーを一瞥。3塁ランナーを確認。大丈夫、この夏の大会のために2年半準備してきたんだ。

 

 ……準備…。


「新田君は…何も準備してきてくれなかったんだね…」


 言葉が脳内ではっきりと再生される。心が乱される。俺は一度プレートから軸足を外した。ランナー達がすぐさま帰塁する。

 ……また昨日のことを思い出してしまった…。

 無意識にロジンをつける。はっきり言って試合どころではない。

 この背番号をつけている以上この試合のどこかで投げることは覚悟していたし、それがピンチの場面でも大丈夫なように準備はしていた。負ければこれが引退試合である。しかし、どうしても昨日のことが頭から離れないのだ。



 問題は昨日の6時限目の直後、部活へ行く前に起こった。俺は教室を出ようとしていたところを同じ3年G組の上原鈴香に呼び止められた。文化祭のクラス企画について話がしたいとのことだった。

 俺と上原は文化祭のクラス企画委員だ。俺は体育係決めのじゃんけんに負けて空いていた企画委員の枠に入ったが、去年も委員をやっていた上原は真っ先に立候補していた。俺と上原は3年間クラスが同じということもあり、ある程度気心の知れた仲だ。

 ベタ惚れという程ではないが、そこそこ気にはなっていて容姿も可愛いと感じる。クラス企画を進める上でも悪くないコンビだと勝手に思っている。


 白金高校の文化祭では各クラスが企画を持つことになっている。縁日・カフェ・劇・お化け屋敷といった定番のものもあれば凝ったものもある。特に3年生の企画は毎年好評で高校の目玉だ。

 劇などの定番をやるにしても、生音楽や映像との融合であったり最近ではプロジェクションマッピングといったツールを駆使するなどの工夫が求められる。


 クラス企画委員の役割は、クラス企画決めのまとめ、企画の運営、文化祭実行委員会からの連絡を伝えるといったものだ。

 3-Gは音楽系に強い人が多いのを活かして、楽器演奏を取り入れたものにすることは決まったがメインに何を据えるかが決まっていなかった。映像・劇といった案は出たが、来客投票で決まる「学年賞」を狙うにはもう一捻り欲しい。

 先週のホームルームで行った企画決めの後に上原と話して、2人が各々で企画のアイデアを考えて持ち寄ろうということになった。2人で候補を絞ろうというのだ。

 その期限が昨日までだった。ついでに、去年の文化祭で音楽系のクラス企画をした先輩が野球部の1つ上にいるから話を聞いておくとも言ってあった。

 

 …どちらもやっていなかった。近頃は試合のことで頭がいっぱいであったというのは事実だが、うちの野球部は特に強豪でもなく練習以外に自由な時間はいくらでもある。勿論、高校最後の大会に掛ける想いは強いから練習に熱は入っていたが、ちょっとアイデアを考えるとか元々連絡を取っていた先輩に話を聞くのは容易だった。何より、上原も女子テニス部のエースで最後の大会を勝ち残っていた。条件は同じだ。


 教室のドアの前で俺はきまり悪そうに言った。

「わりぃ。まだ何も考えられてないわ」


「そっか…。前言ってた先輩から話は聞けた…?」


「えぇと…それもまだだね」


 答えるか答えないかのところで、既に上原の顔は暗くなっていた。俺を責めるでもなく、ただただ悲しそうな顔をしていた。ギクリとした。やっちまった感で全身が硬直する。3年間でこんな顔を見たのは初めてだ。ここで、あの言葉である。


「新田君は…何も準備してきてくれなかったんだね…」


 泣きだすかと思ったがそんなことはなく、ギュッと唇を噛んだ後に、そしたらまた今度ねとだけ言い教室から出ていった。そんなに文化祭に思い入れが強かったのか、企画決めを楽しみにしていたのか…。あの悲しい顔と声は頭を離れなかった。


 昨日上原と話す機会があれば、明日試合なんだと軽く誘おうかとか思っていたが、そんなこと頭を過る隙もなかった。

 去年の秋の大会には来てくれていた。練習後だったのか、テニス部のライトグリーンのユニフォームがスタンドで目立っていて、マウンドからも見つけられたのを思い出した。…今日は、来てくれないよな…。



「ボールフォア」

 主審のコール。気が付くとバッターが肘当てを外していた。フォアボール。ワンアウト満塁。味方ベンチからタイムが宣告された。大川がマスクを外しながらマウンドへ来る。内野も集まる。

 帽子を外して汗を拭った。集中しないと。ちらりと1塁側スタンドを見る。ライトグリーンは見えない。

 

 大川がミットで口元を覆いながら言う。

「やっぱストレート悪いな。スピードは出てるけど」

「あぁ。悪い」

「2球目のスライダーは悪くなかったから、それ中心に行こうと思う」

「あぁ」


「次のバッターは足あるから、狙うならホームゲッツーな。前進寄りの中間で」

 大川から内野陣それぞれに指示が出る。

 こいつは冷静で責任感が強い。こういう時一番頼れる男だ。だからモテる。チア部の内田さんとは1年から付き合いが続いているらしい。

 それに対して俺は。…上原にこんなダサいとこ見られたら嫌だな。


「新田、お前だけで背負うな。緊張しすぎるなよ」

 とセカンドの飯島。

 良かった。緊張だと思われていて、集中していないのは気付かれていない。上原とのことが気になって集中できないなんて、バレたら死ぬほど恥ずかしい。


 ……良かった…?


 いや決して良くない。こんなことで高校野球が終わるのは耐えられない。全国制覇は厳しくとも、都立高校として甲子園の土を踏むと目標を掲げて頑張ってきたのだ。

 文化祭のネタは試合後にちゃんと考える。上原にも謝る。一緒に良いクラス企画を作る。

 この際はっきりさせておく。さっきはそこそこ気になっているといったがあれは嘘だ。惚れている、ゾッコンだ。何なら時々鈴香と呼んでいる……心の中で。

 

 やる気のスイッチは入った。


「っしゃ行こうぜ!」

「「「おう!!!」」」

 気が付いたらタイムが終わった。ナインが散る。切り替えるぞ…。


 まずはロジン。集中すべきはこの回を抑えること。


 「新田、お前さ…」

 声のする方を見る。まだマウンドから離れていなかったショートの本間がいた。何か言いたげな顔をしている。本間とは中学からの付き合いで、今年は中学ぶりにクラスが一緒になった。大川とはまた違う俺の良き理解者である。


 本間は一瞬何かを躊躇うような顔をした後、

「や、集中していこう」

 とだけ言って守備位置に戻った。どういうことかわからなかったが、きっとうまいこと言おうとして言葉が出なかったのだろう。おう、とだけ返事をしてロジンを指につけた。


 相手は長身の右バッター。6番だが長打もあると一昨日のミーティングで言われていた。大丈夫、集中してきた。

 真ん中低めストレートの要求。頷く。セットポジション。ランナーは詰まっているが自信のあるクイックモーション。地面に叩きつけるようなイメージで、力みすぎず腕を振り抜く。打てるものなら打ってみろ!

 

キィィーーーーーン


 やや内角に寄ったボールは超高速で3塁線へ飛ばされた。頭が真っ白になる。俺はどこをカバーすればいい…?ホーム後ろ?セカンドのカットマン?


 パニック寸前のところで3塁塁審の両手が開くのが見えた。ファウルだ。

 フーッと息をつく。大川がマウンドに寄ってきた。ボールを手渡ししながら小声でサインちげーぞと伝えてくる。

 そうか。あれはスライダーのサインだ。…あぁ焦っているだけで集中できていない。

集中できないついでにちらりと1塁側スタンドを見る。ライトグリーンなし。最前列ではチア部員たちが両手を組んで祈っていた。あのどれかは大川の彼女だろう。


「お前はいいよな…」

 ホームへ戻る大川の背中にボソッとつぶやく。聴こえないと思って言ったのに大川が振り返りそうに見えたものだから、慌てて身体の向きを変える。

 

 ……集中。

 ロジンバッグに手が伸びる。

 顔を上げるとショートの本間と目が合った。一瞬の間の後、本間はワンナウトワンナウトと言って内野を見渡した。


 大川からスライダーのサイン。食い気味に頷いてしまったため少し驚かれる。

 セットポジション。ミットを見る。大丈夫。この試合では終わらせない。次の試合までに…

  

 …ここを取らなければ次はない。邪念を除ける。


 洗練されたクイックモーションで、思いをぶつける様に腕を振る。ボールが指に掛かる。注文通りの低め。

 先程と近い軌道から手元で曲がる変化に、思わずバッターの手が出る。


 ガキッ


 鈍い音を立てた打球はバウンドしながら三遊間へ。中間守備を取っていたショート・本間が半身で捕る。迷わずホームへ送球。


 俺のボールよりも綺麗なストライク送球は3塁ランナーの到達より早く大川にミットに収まった。


 大川が1塁へ送球し、こちらもアウト。スタンドから歓声が上がる。


「「しゃあ!」」


 思わず声が出たがベンチの高津の叫びの方が大きかった。

 ワンアウト満塁、勝ち越しのピンチを何とか退けた。スタンドに目をやりながらベンチへ走る。やはりいない。


「ナイピ」

 と本間。ナイショと応じる。なんとか切り抜けられた…。試合はここからだ。


 本間がヘルメットを被りながら俺の方を見る。


「新田、上原は来てるぞ。集中してないとすぐこれなんだから」

 真っ白になっている俺の右手を指して、ニヤッと笑った。


 旧友には癖も心も見抜かれていた。

 

 …これ以上、恥の上塗りは出来ない。あと5イニングを背負う覚悟が出来た。


 


 


 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ロジンバッグに手が伸びる 銀河 @andromeda184

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ