私の方を見てほしい! 5
ぽすん、と。
思っていたよりか数百倍軽い衝撃があって、私はなにか暖かいものに包まれた――こ、これは――めっちゃ良いにおい――違うやめろ馬鹿――これは――!
「大丈夫ですか、美山様?」
――海の底のような深い声が頭上から私を気遣った。
これは、平野さんの胸の中、だ。
「だっ……大丈夫! です!」
私は慌てて顔を離した。顔が熱い。体が熱い。全身からタバスコを噴き出しそうだ!
「お怪我はありませんか?」
優しい問いかけに、私はもうがくがくと頷くことしか出来ない。実際、足首までは捻らなかったし。転びかけた拍子にだろうか、手も解放されていた。
私は両手で頬を覆った。まだ顔が熱い。平野さんの胸に頭から突っ込んでしまったなんて……! ああ、でも、どんなに恥ずかしくても、きちんと言わなくては……!
「あ……ありがとうございます、平野さん……!」
私はうつむいたままそう言って、頭を下げて、それから平野さんを見上げた。
平野さんは優しく微笑んでいた。
「美山様にお怪我がなくて何よりです」
「ひぃっ……カッコイイ……」
「……」
ハッ、しまった心の声が。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ……」
平野さんはちょっと困った微笑を浮かべて小さく首を振った。眉尻を下げていらっしゃるのもまた素敵なお顔ですね! いや本当にごめんなさい!
「ああ、なるほどね」
ひょいと平野さんの肩に羽美子兄が手を置いた。
「つまり、恋敵ってわけか」
「こっ?!」
「こ……っ?」
さらりと言われたことに、私も平野さんもびしりと固まった。な、何を……言うてんのこの人……?! 私はいいけど平野さんは……!
焦った私は思わず叫んでいた。
「待ってください違うんです! 私が一方的に平野さんを好きなだけなので!」
――叫んでから気付くんだよねぇ、こういうことを言うからいけないんだ、って!
羽美子兄はにっこりと笑った。
「アハハ、それでも恋敵だ。君の心を彼から奪わなきゃいけない」
と平野さんの肩をぱたぱた叩く。叩かれた平野さんは気まずげに黙っている。なんか……ごめんなさい平野さん……。
「いいね、燃えてきた。――できれば君が、涙を流す前に、僕の胸へ飛び込んでくれることを祈っているよ」
よくそういう台詞を真顔で言えるよなぁ……と遠い目をした瞬間、もう一度手を取られて甲にキスされた。
ひ、と固まる私をよそに、羽美子兄はきらりと星が飛びそうなウィンクをして「じゃ、またあとで」と去っていった。
彼の姿が廊下の向こうに消えるまで固まってから、私はゆっくりと動き出した。手の甲を壁にこすりつける。ああーもう一回トイレ行ってこようかなー……手を洗いたい……なんか、なんだろう……いくらイケメンとはいえ、ねぇ……。
「……よろしければ、お使いください」
スッと目の前に差し出されたのは白いハンカチだ。
「えっ、で、でも……」
「どうぞ。構いませんので、ぜひ遠慮なさらず」
「……ありがとうございます」
思いの外押されて、私はハンカチを受け取った。うーん平野さんの優しさとイケメンさが骨身に染みる……。
手の甲をしっかりと拭いて、きちんと畳んで――
――その時ハッと天啓を得た私はハンカチをぎゅっと握りしめた。
「洗って返しますね!」
「いえ、そこまでしていただかなくとも」
「いいえ、そういうわけにはいきません! きちんと綺麗にしますから!」
お願い、許して!
私の心の中の叫びが伝わった、とは思えないが、とりあえず絶対に譲らない、ということは伝わったらしい。
平野さんは「本当に大丈夫なのですが」と言いながらも手を引っ込めた。
(よしっ! 天才! これで“ハンカチを返す”という名目で話しかけることが出来る……!)
内心は拍手喝采で沸き返っていた。
(……ん? ちょっと待て、平野さんがここにいるっていうことは……)
「あの、平野さん、もしかして交替の時間でした?」
「ええ、そうですが」
「――呼び止めてしまってすみませんでした!」
私は勢いよく頭を下げた。
やっぱりそうかぁ、金井さんと入れ替わるタイミングだったからちょうど通りかかったんだよねぇ、他に理由はありませんよねぇ?!
「私なんかがお仕事の邪魔をしてしまって……もしこれで王子が何か言ってきたら全部私のせいにしてください、お願いします……本当に申し訳ないです……」
「ええと……頭を上げてください、美山様」
私はおずおずと従った。
平野さんはなぜか伏し目がちになっていた。目線は斜め下を向いて、体の前で指を組んでいる。
「……ちょうど私が通りかかることができて良かったです」
「え……」
「広間まで付き添います。行きましょう」
「あ、はい……」
先導してくれる平野さんの背中をじっと見つめながら、私は今の言葉を何度も頭の中に反復させた。ちょうど私が通りかかることができて良かったです……? 私が……? それって――いや、深読みはするな美玲。余計な期待はするな!
(そうだ、無駄に期待しちゃいけないんだ……平野さんは優しい方だから、きっと助けを求められたら誰のことだって助けるお人なんだよ……それで同じように、“助けることが出来て良かった”っておっしゃる方なんだ……絶対そうだ)
って言い聞かせているのにもかかわらず、私の脳内はお花畑だから、ちょっと気を抜くとすぐ自分に都合の良い方向へ行こうとするのだ。おかげさまでこの後はずっと足元がふわふわしていた……。周りの目なんて一切気にならないほどに。
「美玲、何かあった?」
「……え?」
羽美子ちゃんが気味悪いものを見る目でこちらを見ていた。
私はまさかあなたのお兄様に個室へ連れ込まれそうになりましたなんて言えず、
「あ、いや、何も……」
と曖昧にお茶を濁したのだった。
幸いにして、そのあと羽美子兄と近付く機会には恵まれなかった! よっしゃあ!
☆
少し早くパーティーを脱け出し、羽美子ちゃんが家まで送ってくれた。
家で化粧を落とすと、あっと言う間に元の顔に戻る。
(うっわぁ、改めて見ると本当に薄味……)
思わず鏡の中の自分をまじまじと見つめてしまった。
(……平野さんも、やっぱ綺麗な方が好きだよね……?)
汚いよりは綺麗な方がいいに決まってる。地味より華やかな方が好まれるだろう。
……うん、よし。メイク、勉強しよう。
メイク一つで好まれる顔になれるなら、どれだけ時間がかかってもいい。絶対に習得するんだ!
(羽美子ちゃんに頼めば教えてくれるかな……派手な感じになりそうだけど)
できればその前に、平野さんの好みを知っておきたい……――いやこれってハードル高いな?!
(あっ、そうだ、ハンカチ!)
私は平野さんからお預かりしたハンカチを取り出した。
綺麗な真っ白のハンカチ。端の方に小さくイニシャルが刺繍されている。
(……へへっ)
このまま自分のものにしてしまいたいという愚かな欲望が鎌首をもたげたが、慌ててそれに蓋をする。頬をこすりつけたいとか、抱きしめたいとか、そういう衝動にも丁重にご退出願った。
(丁寧に洗おう。それで、お礼と一緒に返すんだ)
あわよくばその時に好みも……聞けるわけないか。
少しお話しできるだけでも、今の私には大きな一歩だ。
色々なことがありすぎた一日で、その夜はなかなか寝付けなかった。夢の中の私は、手の甲に軽々しくキスしてくる軟派野郎の頬を思いっ切りビンタしていた。
ああ、許されるならリアルでもそうしたかったのだけど!
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